Japanese Translation: 1 Samuel 1 (Message: Pastor Robinson / Translation: Ronald Akatwijuka)

1 Samuel 1

私達に与えられた矢

はじめに: 母の日、おめでとうございます。今日は母の日なので、一度創世記の学びは休みにして、第1サムエルから学びたいと考えています。 本日の箇所では二人の女性の話を見ます。一人目は母で、もう一人は母になりたい。しかし、一つ共通点があり、二人とも子どもについて勘違いしています。彼女らは 子どもはどんな存在かは知っておらず、親のために子どもがいると思っています。親のアイデンティティ、栄光、満足のために子供がいると思っています。 しかし、一人は祈りの中で神様に行って、変えられます。子供は自分のためでないことをわかってきます。子どもは神様から、ご自身の意思を達成するために与えられます。聖書は子どもを矢に例えて語っています。その矢を与えられた母親としてどのように行動すべきか見たいと思っています。


こどもはこれではない…


今日の箇所では二人の女性がいます。一人目はハナで、もう一人はペニナです。これまで似たようなケースも見てきたのですが、片方は子供がいたのですが、もう片方は子供がいなかったです。これは、片方はお母さんに適していてもう片方が適していなかった訳ではありません。この場合はそうではなかったのです。聖句を読むと、二人とも子供の目的・役割を理解していなかったのです。二人とも自分のために子供がいると思っているのです。 自分の必要を満たすために与えられていると思っています。自分の地位のため、自分のプライドのために与えられていると思っています。


このような態度を二人の行動でよく表れます。ペニナについて言えば、自分の子供に対してこのように見ています。自分に子供がいることをハナに対して力点にしています。自分の方が地位が高いとしています。子供がいることで、ハナより優れている、という態度をもっています。ハナに子供が授かっていなかったことを利用してペニナはハナに辛い思いをさせてしまいました。


この物語では、ハナは被害者に思えますが、しかし、彼女も子供に対して同じような思いをもっていました。子供の存在の意味を正しく理解していたら、ペニナの言葉から傷つけられることはなかったはずです。しかし彼女も自分の満足のために子供がいると思っていました。その故自分に子供が授かっていなかったことに強く悲しんでいました。

そして私達は認めたくないのですが、私達も同じように子供のことを思っていることがあるかと思います。自己満足のために子供がいると思ってしまいます。私達も子供の存在目的の解釈を間違えてしまい、自己中心的に私達のアイデンティティに変えてしまうことがあります。


子供を私達の延長線上に見てしまいます。子供が正しいマナーを示すと、自分たちに反射させます。うちの子供は良い子なので、私が良い親だ。私は良い人間だ。子供がゴールを達成した時に、それを私達に反射させます。ピアノが上手なので、「ほら、うちの子よ」と、子供の栄光に貼りたがるかと思います。


そして、自分の子供に満足を求めます。ハナと同じように子供に大きな期待を置きます。「子供がほしいな。子供さえいれば私の人生は完全になります。完全な家族を持つようになります。テレビや映画で出てくるような家族のイメージがほしい」.


しかし問題は、子供はその目的で与えられている訳ではありません。親のアイデンティティの一部でもありません。親の栄光、満足のためのものでもありません。

そのように期待していると、多くの問題が発生しまいます。


子供を自分たちの延長線上に見て、私達のアイデンティティの一部にすると、子供が正しいことをしていると嬉しいですが、その反対の動きをした時にどうするのですか?スーパーで喧嘩を始めたり、騒いで近所に迷惑したりするときにどうするのですか?(これは、過去にあった訳ではありませんよ」。私達の延長線上に見て、正しいことをしたときに誇りに思っていましたが、今の行動は恥ずかしいばかりです。そのときに状況以上に怒りを示すのでしょうか?なぜ?子供が恥ずかしくなることをしているから怒るのでしょうか?通常は他人が恥ずかしいことに私達は怒らないのですね。面白いと思いますね。Youtubeはそうじゃないのでしょうか?恥ずかしいことをしている人の動画が中心的なコンセプトです。しかし、私達が怒るのは、その恥ずかしいことを自分に反射すると思うからです。子供を自分の延長線上に思っていると、怒りの反応をすることになります。


子供から自身の栄光を求めていると、そこまで栄光のない子供だったらどうするのですか?勉強ができる子供は誇るのですが、勉強が苦手で成績が悪かったらどうするのですか?チームの中でパーフォーマンスが良かった時良いのですが、悪かったときにどうするのですか?子供に栄光を求めていると、同じく恥ずかしいときは自分たちに恥もきます。その時によくあるのは、私達の恥を子供に押し付けてしまいます。子供を責めてしまいます。子供を成功させるために、彼らが受け持てないほどプレッシャーにプレッシャーを掛けます。


例:私は母から勉強についてよく怒られました。私の親戚は勉強できる人がたくさんいて、おじいさん、おじさん、おばさん、母も学校の成績がとても良かったです。 彼らは、歯医者、看護師、などのエリートでした。そのために育ったときに、家族の中で勉強の期待が大きかったです。成績はAしか受け入れられなかったです。Bだったら、何があったのと聞かれていました。Cだったら、Fと同じくお母さんによく怒られました。1時間くらい叱られて、タイムアウト、などがありました。小学校1年生からそうだったんです。とてもプレッシャーを感じて、学校に行きたくないとまでなってしまいました。学校に行きたくないからよく病気のふりをしていました。成績のプレッシャーで私がへこんでしまいましたが、自分の子供に栄光を求めると、そうなってしまいます。


私たちの満足を子供から期待する事ができません。はっきり言って、子供は私達を満たす事ができません。人間の必要を満たすができるのは、神様の他いません。満足の期待を子供においてしまうと、神様しか背負えない重荷を子どもに持たせようとする事となります。勿論子供の小さな肩に置けない重荷です。子供はこのような高い期待に応えられないので、親から求められた場合、子供は辛い思いをする原因になります。その結果、子供は親と過ごす時間を減らし、自分の必要もあり親の要求に付き合っていられないので、趣味とかといった物の方に時間・力を費やすことになります。


ハナと夫のエルカナの関係からも同じ事が言えます。ハナにとっては幸せは結婚から始まると思っていたでしょう。しかし、結婚を得ても心の中には足りなさが未だ残っていました。ハナを満足させるためにエルカナは祈りに上がったときにハナに対してペにナに比べて捧げ物の二倍を分けて愛をしめしていました。ハナは愛されているにも関わらず、心の中に深い悲しみと満たされない感が残っていました。顔まで悲しみを出していたハナに対してエルカナは、「何で悲しんでいるのでしょうか、何で私だけに満たせれないでしょうか」と尋ねていました。しかしハナはエルカナに心と時間を譲っていませんでした。ハナは自己満足の為にほかのものを求めていたからです。


私達は子供に対して複雑な感情を持って私達にも理解できないこともあります。ペニナとハナの関係からその一つの例が見られます。彼女たちはそのような関係を長年も続けてしまいました。子供に対して間違った期待をおいてしまったため多くの痛み・混乱が発生してしまいました。


しかし神様は親・子の関係にそのようなことを望まれていません。神様はご自身が人間の必要を満たす存在でありたく、同じことを子供に求めて望まれません。


1.神様があなたを満たして望まれます

先週のメッセージで見たように、私達に欠けた一つ一つのことに、神様がそれを完全に満たして望まれます。人間がその必要の満足をご自身のもとへ求めて望まれます。神様との時間の中で私達の必要をいっぱいまで満たされる関係、神様はそのように望まれます。私達が満たされて、神様は私達が他のものにそのような満足を求めて望まれません。特にこどもに対して尚さらです。


ハナの場合、長年多くの要求を子供が授かることに置いていたのですが、最終的には神様に持って行きました。何があったかと言うと、彼女は神様のところへ帰ったのです。そうすることによって彼女はもはや悲しむことはなかったのです。彼女は満たされました。神様との時間の中で彼女の乾燥が満たされました。


例:面白いことに、私のゴールデンウィークはまあ大変でした。子供が病気になって、奥さんまで倒れてしまいました。そうなると家庭の状況は崩れてしまいます。そのような状況でゴールデンウィークは過ぎて、木曜日にShine Kidsの準備をしなければいけなかったのですが、自分の心の中で休みができていないと感じていました。連休に休みの時間を楽しみにしていたのに、全く休めない状況になってしまいました。あっという間に過ぎて、もう仕事に戻らざるを得なくなりました。そう考えながら私がへこんでいましたが、携帯電話をとってその日の聖句は次の内容でした。


[コロサイ人への手紙 4:2 ]目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。

それでわかったのは、ああ、私の必要を祈りに持って行けば良いんだな。その瞬間に祈って神様のもとへすべてを置いたのです。そこから私の心が満たされてその後はこころの中で感謝しか感じなかったのです

。ゴールデンウィークを与えられたことも感謝できたのです。私が忙しくないときに家族のケアができたことに感謝できたのです。


神様はあなたの要求を満たしたいのです。


2. 神様があなたの栄光になって望まれます。

あなたは栄光を強く求めているのです。神様はそのことを存じておられます。それに対して神様の備えは、あなたをご自身の息子イエス・キリストのイメージに変えることによって輝かすことです。イエス様に似ていくほど、あなたは輝くのです。あなたの輝きそのもののために神様が働いておられ、日々イエス様に似せようとされています。子供の成績に関係ありません。


3.神様があなたにアイデンティティーを与えたのです

あなたがイエスに信じた時に、新しいアイデンティティーを与えられたのです。あなたは神の子とされました。それがあなたのアイデンティティーで、イエス様の中でその事実が承認されています。変わることはありません。あなたから取り去れることもありません。子供がどんなに近所に迷惑をしたにしても、それが変わることはないのです。

私達がこどもにおいているこれらの期待に対して、神様は本当の満足を備えているのです。私達が神様のもとへ行って満たされること、そのような期待をこどもに行かないこと、このように神様が望まれます。


ここまでは子供に期待しないものについて見て来ましたが、ハナにとっても私達にとっても一つ質問が残ります。じゃ、子供は何のための存在か?


子どもは次のようなものです

ハナの例から、子供の存在目的がわからず神様に尋ねました。これは祈りについての面白い特徴ですが、祈りは神様に私達の必要のリストを持っていくと見ている場合が多いです。私達の祈りの仕方を見ると、そのようになっていることが多いです。

多くの人から、私も含めてですが、そのような祈り方に問題あると指摘しています。神様はほしいもののかごじゃないよ、とこの祈り方を批判する声が多いです。私はそのように言ってきたことについて本当に申し訳ありません。というのは、そう言うことによって兄弟姉妹は神様は自身の必要に興味ないと感じさせます。しかし聖書はそう言っていません。その必要を神様に持って行くこと、聖書はそのように呼びかけています。


[第1ペテロの手紙 5:7 ]神様はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。

[ピリピ人への手紙 4:6 ]何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。


ですので、神様は私達の願い、要求を歓迎されます。私達の本当の要求をご自身のもとへ求めて望まれます。私達が神様にそのように行くと、私達のうちに予想もしていなかった変化が起こります。 祈りの中で神様にそのような願いを持って行くと、私達は変えられます。変えられるしかありません、それを止めることができません。神様に出会うと人間は変えられます。


例:モーセが山に登って神様に会ったエピソードを覚えます。下りてきた時に自分の顔が輝いていました。とても輝いていたのでイスラエルの民はそのまま顔を見ることができず、彼は顔をカバーしなければいけなかったのです。 神様に会ったときに、私達は変えられるしかありません。


ハナの祈りからも見られますが、祈りながら自らは変えられました。祈りながら、自分のリクエストに変化が見られます。子供に対しての見方が変わってしまいます。これまでは、自分のために子供を求めてきたのです。自分の要求が満たされるため、自分の恥が取り除かれるため、自分が満たされるため、長いこと悩まされていたペニナの自慢を止めること。これまでハナはこうしか求めていなかったのですが、今回の祈りの中では次のようにいます。


[サムエル記上 1:11] そして誓いを立てて言った、「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜りますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」。


ここに変化が見られます。最後に、「私に子供を下さい」と言いますが、その子は「私のため」ですか?そうではありません。神様の栄光のため、永遠に神様のために捧げると約束しました。


[詩篇 127:3-4] 3見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。4 壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。


子供は神様から与えられた遺産です。他の聖書のバージョンは「祝福」という言葉を使います。神様から私達に与えられた賜物です。そして、「勇士の手にある矢のようだ」とまで言っています。想像するときれいなイメージですね。しかし、あなたが勇士なら、どこに所属する勇士ですか?侍ですか?自分のために戦っていますか?主人のいる勇士です。主人のいる人なので、その矢を主人のために使うのが正しいです。


勇士は矢をどこかに置いておくのですか?そうしますね。矢のケアをしますか?雨に降られないように守りますか?変形されないように、健全な状態に保つようにしますか?そうします。矢を鋭く保つようにしますか?これらのことをすべてするのですが、主人のために行動しています。主人に求められたら、上手く行動できるように備えています。 主人が指示を出したら、その矢が使われる状況にある、そのために勇士が働きます。


私達のこどもについても同じです。主人はこの矢を私達に与えられたのです。主からの賜物です。私達にそのケアをするように命令を受けています。子供たちは私達から守られ、鋭くされる必要はあります。彼らに御言葉を教えること。主が望まれる道に歩むように導くこと、これらのことを求められています。 しかし、最終的には、それらの備えはすべて神様の自身のためで、私達のためではありません。神様が示される方向へ彼らは行きますし、その時期も神様が指定します。なぜかと言えば、神様ご自身がそうされたからです。

神様のご計画が達成されるために、私達の子供を一流大学に行かせるかも知れません。同じ目的で行かせないこともあり得る、大学に行かない道も神様から選ばれることがあります。


例:私の場合はそうだったのです。大学では成績が良かったです。卒業したいと思っていました。しかし、その途中に日本に行くことの呼びかけがありました。待っている時間がありません、今向かって下さいとの呼びかけでした。大学に卒業していないから受ける制約はありますか?あります。しかし、私の場合は、その制約は良い面に活動しました。難しいときがたくさんあったので、卒業証書があり他のこともできるという選択肢があればそれを選んだかも知れません。そうすると、本日ここにいることができなかったはずです。しかし、今私がここにいるのは、神様の呼びかけがあった時に私が従ったからです。母親からは行ってほしくなかったのですが、私が離れることを許してくれたのです。


私の経験はそういうものだったのに、子供の教育に結構悩みました。奥さんはhomeschoolingするように誘導されていると強く感じていましたが、それを聞く私がパニックになりました。高校に入れるか?大学に行けるか?アメリカにいればより簡単だったと思いながら、日本ではどんな影響があるか読めなくてパニックになりました。しかし神様はその点についても平安を与えてくれました。「私のことを学んでいるのであれば、かれらは大丈夫よ。私以外に必要はありません」と神様が言うように励まされました。高校であろうが、大学であろうが、学校でなかろうが、神様はご自身をわかる人間を使うことができるのです。


神様の計画の一貫として、子供たちを大手企業で務めさせるかも知れません。同じく、高くないポジションで務めさせるかも知れません。レストランの店員だろうが、有名なビズネスマンだろうが、ゴミ収集の仕事をしていようが、社長であろうが、神様はどなたも福音を伝えるのに使うことができます。


例:聞いて珍しいと思うかも知れませんが、私の子供が大きくなったときに何をするかは私は特にイメージを持っている訳ではありません。そんなに重要視していません。神様を正しく理解して御言葉をわかっていたら、どこに行っても神様はそこに使うことを信じています。神様の栄光のために働いているのなら、どのような職業でも栄誉があります。


神様のご計画は子供たちをここ東京中心で活動させることなのかも知れません。私の夢はそうです。この東京で私の子供が素晴らしい活躍をすることです。しかし神様のご意思はわからないのですね。子供の活躍する拠点がフィリピンや中国、インドやアフリカ、どこになるかわかりません。私の母は私が東京を拠点にすることは想像すらしなかったはずです。しかし、それが主のご計画だったのです。子供という矢神様のものです。私達は神の軍にいる兵士ですが、矢は私達の目的ではなくて、主の計画のために使われるものです。ハナの祈りの中で彼女はそのことを理解しました。祈りの中で、子供が神様のために使われることを理解して、自らが変えられてそのように祈りました。もはや悲しむことはありませんでした。もはや文句を言うことはしませんでした。そして最終的に神様かたこどもを授かったときに、自分のもののように離さない何ということをしませんでした。母乳から話せる時期になったら、彼を主のところへ持って行って主に委ねたのです。そしてその矢は遠くまで活躍しました。立派な祭司になりました。その時にイスラエルが求めていたリーダーになりました。サムエルの時代にイスラエル王が出てきて、ダビデ自身もサムエルから油を注がれました。

これは、すべては、母親が自分の子供は神様のためのもの、ということを理解したことから誕生しました。神様から与えられた矢を、時がきたら神様の目的で使われることを理解した母親です。


終わりに:

お母さんのために祈りたいと思います。ここにいるお母さん、どうぞ立って下さい、一緒に祈りたいです。この矢を守るのは難しい仕事です。ケアするのは難しい仕事です。鋭く保って、神様の道に歩ませる訓練、これはすべて難しい仕事です。そして、離すこともさらに大変難しいです。神様にゆだねること。神様のご計画にゆだねることも難しいです。 彼らが神様が備えた道へ出てあなたから離れる時の心の準備が難しいです。ですので、あなたのために祈ります。このように神様に従う中で平安を与えられること。その平安は神様からしか得られません。


アーメン




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