Japanese Translation: Exodus 32:1-14 (Message: Pastor Robinson / Translation: Yumi Takeuchi)

ホライズンチャペル・世田谷英語礼拝 2021/7/18 Praying Like Moses Exodus 32:1~14 「モーセのように祈る」 出エジプト記32:1~14 アレックス・ロビンソン

皆さん、おはようございます。今日も神の家族が共に 礼拝できることを感謝いたします。 今日は出エジプト記32:1~14を読みます。夏の特別シ リーズ「聖書の中の祈り」を続けようと思います。今 まではとても個人的な祈りを学んできました。祈りを 通してどのように神に近づくか、神のみこころに同意 できない時はどうするか、効果的な祈りの方法は、と いうものでした。今日は別の面から祈りを学びたいと 思います。


今日は祈りを、私たちと神との関係だけでなく、 モーセの祈りのように、私たちと神が共に同じ目 的を持って働くことを学びたいと思います 私たちの周りにある問題は偶然ではなく、祈りを 通して神と共に働くための招きだと言えるので す。

<聖書朗読 32:1~14>

モーセがなかなか降りてこないこと ここにイスラエルの民が出てきます。エジプトの奴隷 生活から解放されたばかりです。10の災いなどの神 の奇跡を体験したばかりです。紅海が二つに分かれ、 壁のようにそり立った水の真ん中の渇いた道を通りま した。最も強いエジプト軍がその水によって一瞬にし て滅ぼされるところを見ました。今はシナイ山のふも とで40日経ち、神がそこに降りて来られたのです。


三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があ り、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民 はみな震え上がった。 モーセは民を神に迎えるために、宿営から連れ出した。彼 らは山のふもとに立った。 シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあっ て、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かま どの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。

角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語 り、神は声を出して、彼に答えられた。 主がシナイ山の頂に降りて来られ、主がモーセを 山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って 行った。(出エジプト記19:16~20)

モーセは山に登っていき、40日間山の頂上にい て、イスラエルの民に対する神の言葉を受け取っていたのです。私たちは40という数字は聖書においてとても重要な 意味があることを知っています。聖書中に何度も出てきます。ノアは箱舟の中に40日40夜いました。イ エスは40日間荒野にいました。40という数字は常 に試練を表しています。40という数字を見たら、何かが試みられているということです。しかし、ここ ではモーセにとっての試練ではなく、イスラエルの 民にとっての試練だったと思われます。

彼らは次から次へと奇跡を体験し、常に指導者が彼 らを導いてきました。しかし、ここで40日間待たされた時、彼らはどうしたのでしょうか。神の働きが 見えず、何のメッセージもなく、指導者もいない状 態になった時彼らはどうしたでしょう。神が目的を 持って彼らの所に降りてきて、彼らへのメッセージ を準備している間、たった40日間待たせただけでしたが、彼らは様々な意見を持ち寄ってきました。


彼らにとっては、モーセが戻ってくるのが待ちきれな かったのです。モーセがあまりにも遅いので、自分た ちで行動を決めることにしました。目に見える物を創 ろうということになったのです。彼らが従うべき偶像 を創ることにしました。聖書を注意深く見ると、彼らみずから裁かれる機会を 生むことになるのです。彼らは本当に多くの奇跡を経 験したにも関わらず、たった40日間が待てなかったのです。


聖書によると、多かれ少なかれ私たち自身も同じよ うな存在であることがわかります。神がこの世に 戻って来るのが遅いと思うのは普通のことです。神 はすべてのことに完璧な目的をもってことを行って おられるのに。

神は決して遅れることはないのです。でも、私たち にはそのことがわからず、神は遅いと感じてしま い、更に悪いのは、神はもしかしたら戻って来られ ないのではないかと感じてしまいます。


最初は我慢できるのですが、やがて私たちの心は待 ちくたびれてしまうのです。 私も同じような経験をしているので、彼らがそう感 じても責めることは出来ません。日本はすべてに時 間がかかります。何かを言おうとしても時間がかか り、しようとしても時間がかかります。待ちくたびれ たことも何度もあります。それは信仰が足りないか らだと言う人もいますが、聖書はそう言っていませ ん。


実は聖書ははっきりと、物や人を待ち続けることは心 を病ませると書いてあるのです。最も賢い人が書いた 箴言の中にこのようにあります。 期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いの ちの木である。(箴言13:12) このように、待ちすぎることは心を病ませるのです。 家族がなかなか主を信じてくれないと、心は病み、疲れてくるものです。


宣教の働きが実を実らせない時も、心が病むもので す。試練が長い間取り除かれないと、心は病みます。 当然のことです。ですから、そのように感じることで自分を責めるべき だとは思いません。待ちくたびれているだけですか ら、信仰を疑う必要はないのです。 本当に大変な状況だと思います。しかし、その思いを どこに持っていくべきか気を付けなければならないと 思います。


信じないかもしれませんが、私はその病んだ 心がとても役に立つと思うようになりまし た。なぜなら病んだ心によって、私たちは神 に近づくことが出来るからです。私は苦しい 時にこそ、祈りによって最も神に近づき親し い関係を持つことが出来るからです。待ちす ぎて絶望していた時に、最も大きな信仰の成 長をしたことを覚えています。


例話:最近も、私が何年も待ち続けてきたことが実現 したのです。ほとんどあきらめかけていましたが、 突然前よりもずっといい状態になったのです。今それ を思い起こすと、起こりそうにもないことで、私に とっては大変なことでした。でも、はっきり言える ことは、今週私のデボーションの時間は素晴らしい ものとなりました。本当に多くを学びました。です から、この試練を今は心から感謝しているのです。


ですから、病んだ心も、それを神の元に持って行 けば場合によっては役に立つのです。 しかし、同時に病んだ心は危険も秘めています。 というのは、それによって神から遠ざかってしま うこともあるからです。間違った方向に行ってし まい、失われた者となる可能性もあります。

イスラエルの民は、間違った方向に行ってしま い、偶像に走ってしまったのです。

民はモーセが山から降りて来るのに手間取ってい るの見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。 「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってくだ さい。私たちをエジプトの地から連れ上ったあの モーセという者が、どうなったのか、私たちには わからないから。」(出エジプト記32:1)

彼らは、間違った方向に行ってしまったのです。 そして、アロンの所へ行きました。

アロンもこのことで大いに悩んだことと思 います。人々のそのような心を知り、彼は 困惑したでしょう。しかしまたこれは彼に 与えられたチャンスでもありました。彼ら が弱い時に励ましを与え、神を求めるよう に導くチャンスでもありました。でも、残 念なことにアロンはそうしませんでした。


それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻 や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、 私のところに持って来なさい。」そこで、民はみ な、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのと ころに持って来た。彼がそれを、彼らの手から受け 取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼ら は、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地 から連れ上ったあなたの神だ」と言った。(出エジ プト記32:2~4)


ここでも、よく考えると彼は霊的指導者になるべき なのに、何をやっているんだ!彼らを止めるべきな のに、恥ずかしくないのかと裁くかもしれません。 または、へりくだって「私たち自身も、何度も口で はやるといったのにやらないことがあったではい か。何度も人を恐れて、波を立てないようにと、周 りに流されてきたことがあったではないだろう か。」と反省するかもしれません。


アロンもそのような立場に立たされたことと思われ ます。彼もそれが間違っていることは知っていたは ずです。でも、人々が怖くなって彼らに従ってし まったのでしょう。ですから、最悪な状態です。心 が病んだ人々が神から離れて行き、祭司はその人々 を恐れている状態です。大問題です。さて、モーセ はこの時まだシナイ山にいて、状況を知りません。 そして神がモーセにその状況を教えるのです。

私は彼らを滅ぼしつくし神はモーセに語りますが、その話し方は興味 深いです。まず、人々がしたことを彼に教え ます。

主はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降り て行け。あなたがエジプトの地から連れ上っ たあなたの民は、堕落してしまったから。

彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはず れ、自分たちのための鋳物の子牛を造り、それを伏 し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエル よ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあ なたの神だ』と言っている。」 (出エジプト記32:7-8)

まず、彼らがしたことを教えたあと、興味深いこと に、神はご自身がこれからしようとしていることを モーセに語るのです。

主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの 民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。 今 はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒り が彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを 絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大 いなる国民としよう。」(出エジプト記32:9-10)

神はなぜこんなことをモーセに語ったのでしょう か。

神が本当にイスラエルを滅ぼそうと決めたのなら、 なぜ勝手にそうなさらないのでしょうか。 私が好きなところは、神が「わたしのするままにせ よ。(私を引き留めるな)私の怒りは彼らに対して 燃え上がっている。」と言っているところです。 「引き留めるな」とは、「私の邪魔をするな」とい うことで、まるで神が既に決めたことでも、モーセ が止めようと思えば止められるようなニュアンスな のです。


どうしてでしょう。なぜ神はこのようなことをモー セに明らかにしたのでしょうか。モーセには、その 状況をどうすることもできないはずです。彼が出来る ことはないのです。 実を言うとこの状況はモーセとは何の関係もありま せん。彼は短い間彼らを導いて来ただけで、彼は何 も間違いを犯してはいません。彼らが間違っている のです。神はモーセを滅ぼすとは全く言っていませ ん。


モーセを通して、アブラハムにした約束を成就す ることが出来たはずです。モーセは新しいアブラ ハムになって、彼だけを通して約束を成就できた のです。しかし、神はある目的を持って、モーセ をその状況に用いようとされたのです。私たちに とっても、偶然ということは決してありません。 すべての事柄に理由と意図があるのです。


私たちの目が状況や問題を見ることが出来たら、神 は目的を持って見せているということです。家族内 のことかもしれませんし、職場のことかもしれませ ん。教会の中のことかもしれません。教会のかけた 点や、必要かもしれません。礼拝や音響や日曜学校 のことかもしれません。または、しなければならな い宣教の働きかもしれません。私たちがそれに気づ いたなら、そこに神の何らかの理由があることと思 います。


その理由は、不満を言うためではなく、自分が頑張 らなければならないと思うためでもなく、その問題 についてみんなに言いふらすためでもありません。 火に油を注いで、「あれ見た?」とか「あの人のこ と聞いた?」などと言うためではなく、また「そん なことは私に関係ない。」と言って見過ごすためで もありません。

神がある問題をあなたに知らせる理由は、その状況 にかかわって欲しいからなのです。

あなたがそこにかかわり、神と共に状況を良くし ていくことにあなたを招いておられるのです。そ して多くの場合、私たちがその問題を解決できる から知らせているのです。他の人が気付かなくて も、自分が気付いた場合は、自分にその解決が委 ねられているからなのです。もし、日曜学校に何 か問題を感じるのなら、教師になるべきなので す。賛美に問題を感じるのなら、神はあなたが賛 美に携わることを願っているのです。


翻訳に関する問題を感じるのなら、翻訳者になるべ きなのです。あなたが解決できるからこそ、その必要 に気づくのです。

しかし、あなた自身が解決できない場合もありま す。モーセが神を止められないように、あなたには 何もできない問題があります。それでも神はあなたに 何かの問題を見させることがあります。なぜでしょ うか。あなたにはどうにもしようがないことを見せ るのはなぜでしょうか。


なぜなら、それでもあなたが果たす部分があるか らなのです。それは恐らくモーセがイスラエルの 民のためになしたのと同じ役割です。モーセは主に嘆願した神が彼にしようと思うことを明らかにした時に、 モーセはどうしましたか。彼が出来る唯一のこと をしたのです。神を止めることは出来ません。


神の民が罪を犯したという事実を変えることもでき ません。彼の兄が怖れのため人々を正しく導くこと が出来なかった事実も変えることは出来ません。何 一つ変えることが出来ないのです。では、彼には何 が出来たのでしょう。 彼は祈りました。イスラエルのためにとりなしたの です。彼にはそれしかできなかったのです。

私が感動したのは、そのとりなしの根拠として何を 用いたかということです。

彼は自らの義をその根拠としたでしょう か。

いいえ。ではイスラエルの民の義を根拠と したのでしょうか。 いいえ。彼らは罪を犯したので、神が彼ら を滅ぼすのは当然のことだったのです。

*彼は神の恵みを根拠としてとりなします。

しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「主よ。 あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地か ら連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなた は御怒りを燃やされるのですか。(出エジプト記32:11)

私たちが今ここにいるのは、あなたがここに連れて こられたからです。あなたの恵みの故に私たちは今 ここにいるのです。ですから、この状況においても あなたの恵みを見せてください。


*彼は神の栄光を根拠としてとりなします。 また、どうしてエジプト人が、『神は彼らを山地で殺 し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを 連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。どう か、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざ わいを思い直してください。(出エジプト記32:12)

神はご自分の栄光のために事を行われ、それに よって世界があなたのことを知るようになるので す。


*彼は神の約束を根拠にしてとりなします。 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚え てください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そ うして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の 星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべ て、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相 続地とするようになる』と仰せられたのです。」すると、主はその民に下すと仰せられたわざわい を思い直された。(出エジプト記32:13-14)

再び、神ご自身の言葉に従って祈っています。

このとりなしの祈りは効を奏し、神はご自分がな さるとおっしゃったことをとどめられたのです。 神があなたが何もできないような問題を見せられ た時、それはあなたに祈るよう招いておられるの です。

ここまで、様々な観点から祈りについて学び、祈 りの力を見てきました。

ゲッセマネの園で、祈りは神のご意思と自分が一 つになることを学びました。神を変えるためでは なく、自分自身が変えられるためだということ。 それは真実でありますが、また同時に祈りによっ て他の人の人生に神の働きが成就するために、神 と共に働くことでもあるのです。特に、個人的に 一度も神を受け入れたことのない人々のためにも 働くのです。


イスラエルは自らの状況に神を受け入れるこ とを拒みました。アロンは現状に神を招き入 れませんでした。ですから、モーセは彼らと 神の間の「破れ口」(gap)に立ち、彼らが神を 受け入れるように祈ったのです。自分には関 係ないと思っている人々が、神の恵みと栄光 と約束を受け入れるように祈りました。そし て、祈りによってそれがなされたのです。

待ちくたびれて疲れきった心は、神に近づく 機会を見逃すかもしれません。ですからあな たが彼らの代わりに神に近づくのです。

落ち込んでいる人々は、神の恵みに気付かな いかもしれません。しかし、神の恵みを受け 入れられるあなたが彼らの代わりに、その恵 みを求めて祈ることができるのです。

イスラエルのように、罪に陥り人生を滅ぼしつつあ る人々は、そこから解放されて神の栄光が彼らの人 生に現れること等考えられないでしょう。それどこ ろか、その反対のことを考えているのです。しかし、 神の栄光に興味をお持ちのあなたは、神の栄光が彼 らの人生において現れ、彼らが全てのことから解放 されることを祈ることがお出来なのです。彼らが決し て祈らないことをあなたなら祈ることが出来ます。


あなたがそのことを知った理由。神がその状況を 知らせた理由は、モーセに神が語ったのと同じ で、あなたもモーセと全く同じことをするためな のです。神はあなたを、モーセのように他の人々 の人生において神の御心がなされるように、神の 働きの一部として祈るように招いておられるので す。モーセのように神の働きの一部を担うので す。それは祈りを通してなされます。


エゼキエル書で、神のすべての民が神に敵対した 時、神の心の叫びはイスラエルのためにその「破れ 口」(gap)に立つ人を見つけることでした。彼らの 代わりに祈る人を見つけようとしましたが、誰もい なかったのです。 私たちの世代においてそう言われないことを願いま す。神は今も神の招きに従順な心を持つ人々を探し ておられると信じます。他者のために重荷をもって 祈る人々を探しておられます。


神が日本をご覧になり、「破れ口」に立つ 人を探した時、多くの人々が見つけ出され ることを願ってやみません。特に、そのほ とんどの人がこのホライズンチャペルにい ることを願います。


結論:イスラエルの民は待ちくたびれて、自分勝 手に行動しました。アロンは人を恐れ、正しい判 断が出来ませんでした。どちらも祈りが必要であ り、今にも滅ぼされるような状態にいました。

しかし、モーセが祈ったのです。恵みを求めて祈 り、その恵みがイスラエルにもたらされたので す。神の栄光を求め、その栄光がその日イスラエ ルを照らしました。

モーセは神の約束の成就を祈り、その民の間で 約束が成就したのです。彼らが反抗していると きでさえ。

モーセのように祈る者になりましょう。 アーメン




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