Japanese Translation: Ezra 3:10-13 (Message: Pastor Robinson / Translation: Akiko Takeda)

敵に協力すること 聖書朗読箇所 エズラ記 3章10節から13節 "建築する者たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。 そして彼らは主を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。 しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。 そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた。" エズラ記 3章10~13節 霊的な力に対抗して エズラ記の学びを続けています。先週ゼルバベルの主導でイスラエルに帰還した第一波といえる人々について学びました。 彼らはまずそれぞれの街に落ち着きそれから宮を立てるためにエルサレムに集まりました。彼らが正しい方法でそれを行い、目的のために一致団結していました。1人の人として気持ちを揃えていました。 そしてこの新しい取り組みに対して彼らはもちろん恐れがありました。その周りの国々の人を恐れたのでいきなり基礎を築こうと取りかかるのではなく、まず祭壇を築いて朝と晩にささげ物をしてその日を神様と過ごすようにしました。この神様が彼らに用意していた建設を進めるにあたって、人間でなく神に焦点を向けるため。 ですから人生の新しい節目を始めるのに力強いとても良い始まりでした。 けれども問題は彼らに敵がいたことです。 ここで理解すべき重要な点は、その敵が人間ではないことです。もちろん人々を恐れたかもしれませんが人々自身は彼らの敵ではないのです。 黙示録を読むと、イスラエルの歴史を興味深い視点から示すのでとても興味深いです。黙示録の中には多くの獣が登場します。

また、ダニエル書からも獣が|力を振るう国々を指すと言うことが学べます。 黙示録もこれらの獣をあらわします。 いくつかの国々は将来的にイスラエルに攻撃をする国また他の国は過去にイスラエルに戦いを挑んできたものです。 獣でも国家でも民でもなく、竜です。 その竜が、獣に力を与えて神の民に対して戦いを挑ませていました。 敵はその獣だったように思われても、本当の敵はその背後にいた竜でした。 さて、聖書に出てくる竜はいつもサタンを表します。黙示録から、エジプト人、カナン人、バビロンの民、そしてローマやその後に起こった国々と民の背後に神の民に問題を起こすこの同じ竜、霊的な力、つまりサタンが神とご自身のために戦いを挑んでいる構図が読み取れます。 いつもある特定の民が敵のように見えるのですが、実際の敵は民ではなく、背後の霊的な力です。 これを踏まえるとなぜ今日までイスラエルをめぐる争いが絶えないかが理解できます。中東の本当に小さな土地ですが多くの人々が手に入れようと争ってきました。 この霊的な力である竜が彼らに向かって戦いを挑んでいたので、ユダヤの人々が自国を失った時でさえ世界の歴史の中心であったのです。 さて、私たちは異邦人でありながら神の民の一部とされています。一部の人は教会がイスラエルに代わって神の民とされたと主張します。私はそれをちっとも信じていません。ローマ人への手紙に野生種がオリーブの木に接ぎ木されたと表現されています。そして神様はその木を見捨てませんでした。イスラエルを見捨てなかったわけです。ローマ人への手紙と黙示録で、神様は依然ご自身の国イスラエルに大きな計画を持たれていることが明確に書かれています。それでも私たちはイエスにある信仰によって神の家族の一部とされました。既に存在していたものに接ぎ木されたのです。遠く離れていたものが近くされました。 これは神の民の約束と祝福に私たちも預かると同時に同様の敵をも受け継いだことを指し示します。物事の背景に私たちに抵抗する霊的な力がはたらいていると言うことです。 敵は多くの方法で私たちに攻撃をしてきますが、敵は昔から人間を用いて攻撃してきます。 私たちにはこれは混乱の種です。人々が私たちに攻撃してくるのを見ると人々が敵だと思うのです。私たちの考えでは人々が敵であると思います。けれども実際位は人々が敵なのではない、彼らに影響を及ぼして動機付けしている背後の霊的な力こそが本当の敵なのです。 パウロがこう記しています "私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。" エペソ人への手紙 6章12節 大声で泣いた

さて民は共に集まり神に召された仕事をしています。宮の再建です。エルサレムの瓦礫の中で霊的なリバイバルを始めようとしています。朝と夕に彼らはささげげ物をして心も神に向いて正しいところに目を向けています。 働き続けた彼らは努力の末に宮の基礎を完成させました。 彼らが祝うべきタイミングだと思いますか? もちろん、お祝いすべき時です。 物事が前に進み出して勢いが出てきました。それに相応しく、作業が終わっていわおうとしているのです。ラッパとシンバルを出して祭司たちは正装して大きな礼拝を持ちます。神様のされたことに感謝し賛美しています。 こう歌います "そして彼らは主を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。" エズラ記 3章11節 これは適切に思いますか。そうですね、捕囚の状況から彼らを救い出された神様はイスラエルに戻る道も備えられました。宮を再建する手段を与えられましたそして建物が築かれようとしているところで神様をほめたたえるのに適切な時期です。そして、ゼカリヤ書でも、天の使いがゼルバベルの手に下げ振りがある、と言ったと記しています。 ここで、ある問題がありました。 ソロモンの宮殿はバビロンが侵攻してきた際に破壊された第一の宮でしたが、イスラエルが最も栄えていた時に建てられた大変美しいものでした。ダビデ王の統治の直後に建てられました。ダビデ自身はこの宮を建てることができませんでしたが、この宮にとても思い入れがあり、生前に息子が実家を建てるのに必要なものが揃うように杭の建材などを支度したことも記録されてます。 ソロモンには必要なものが全て与えられ神の知恵にも恵まれたので宮を建てることができました。そのために当時のイスラエルの歴史を反映する宮でした。その時にふさわしかったのです。 ところが、この箇所はもはや歴史上最も栄えている時期ではなく、破壊され完全に荒廃した自国で再建をしているところです。瓦礫に囲まれペルシャの王からの経費はあってもダビデ王の備えはありません。この宮もイスラエルの異なる歴史の局面を反映しています。おそらくだいぶ規模は小さく、その国の時期を示すように栄華も初めの宮には劣っていたと思われます。宮の基礎を見ただけでそれがうかがい知れたことでしょう。 このことは神様の業として劣っているわけではありません。神様は両方の時期に彼らと共におられるのであって、神様が初めの宮の建設の際におられたのに今回はいないということでは無いのです。 いつも同じように神様がはたらかれるわけではないということです。 神がはたらかれているその時期、その民にふさわしい業をされます。 例え イエスは人々を癒やされましたが、毎回同じ方法ではされませんでした。癒されなさい、という一言で癒された時もあれば、イエスが罪の許しを宣言されて癒されたこともあります。地面につばきをして、それを目に塗られて癒しを受けた人もいました。同じイエス様が願われる人々と目的達成のために、同一の御力がすべての癒しにはたらいています。 ですから、たとえ異なる宮であっても彼らの内に神様がはたらいておられると言う印がありました。そして祝う節目ではありましたが… 祝の最中に人々は頭の中で物事を比較しはじめました。新しい宮と昔の宮、新しい神様の働きと以前のはたらき。そしてこの比較は新しいはたらきを感謝することを止めさせてしまいました。彼らはがっかりする行動に出ます。神様がされたことを喜ぶ人の祝う傍らで嘆き悲しみ出した人がいたのです。 こう記されています: "しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。 そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた。" エズラ記 3章12~13節 もし皆さんがその場に居合わせたら、どうでしょうか。神様のなされたわざを喜び幸せに思っている隣で兄弟があなたの喜んでいる同じ業に対して泣いているとしたらどう思うでしょう。がっかりします、せっかくのお祝いが台無しですよね。喜びの気持ちが台無しになります。神様のわざが充分でないように思えて失望してしまいます。それでも建設を続けたいと思うでしょうか。実際はこんなことをしても意味がない、と建設をやめたくなってしまうのではないでしょうか。イスラエルの民はこの日、そのようなことを知らず知らずしていたのです。 "子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。" ヨハネの手紙 第一 4章4節 さて、キリストの内にある私たちは神様の民として聖霊が住まわれています。他のどんな霊的な力の支配も受ける事はありません。私たちの内に住まわれる聖霊はいかなるものにも打ち負かされる事はありません。 けれども私は、これまで自由意志で行動や言葉で悪魔のわざに加担するようなことがあったことを認めなければいけません。 ある時は神様がはたらかれていたのに、うっかりその御業を裁くようなことをしました、また知らずに兄弟姉妹や、私の妻と子供たちをがっかりさせたことがあります。 ヨハネの福音書8章で、イエスはサタンのことを初めから殺すものだったと表しています。殺すことがサタンの目的だと。私は神様のされていたはたらきから与えられる喜びを台無しにしてしまったのです。 そうしたかったからではなくたいていは神様のされていることを理解も感謝もしないのです。それは神様の御業が一見私が願うようなものでないからです。 例え 日本に来た頃初めて日本の教会を見たのを覚えています。私が予想してたようなのとは全然違いました。アメリカで見慣れていた教会の風景と同じようなものを期待してたのです。人々はハグしあうこともなく私の慣れていたアメリカ式に違いを愛する様子がありません。ほんとに私自身が喜びを台無しにする者として日本滞在を始めていたのだと思います。 見るもの全てをさばいていました。連れていかれるものほとんどに対して不機嫌になりました。私が理解できないような方法で神様がここで働かれているとは気付かずにいたのです。 沖縄に行った時にも同様のことが起こりました。バイブルカレッジに神様は私を導いておられたのに私は自分の期待と異なることに出くわし同じ道を辿りました。常に惨めですべてのことに不機嫌でした。真新しく導かれていることとそこにあるべき喜びを味わっていませんでした。本当にその場所で神様がはたらかれて、そのことを通して私を豊かに祝福されるところだったのです。けれども私はその働きを感謝するのではなくさばきました。一楽器目にはそこにあった喜びを台無しにして過ごしました。仲間たちがそんな私に忍耐してくれたことにとても感謝をしています。 私は神様の子です。神様ご自身のわざに召されています。けれども兄弟姉妹をがっかりさせてしまった。私は決して孤独ではなくて本当に良い仲間の中に置かれています。 例え ダビデの軍政は彼の息子アブサロムの率いる反抗する勢力と戦っていた箇所があります。その日神様はダビデの群に勝利を特別に与えられてその反抗勢力の頭であったアブサロムを制する機会を与えられました。神様のくださった勝利、ダビデの命を守る兵士たちに感謝をするのではなく彼は自分自身を殺そうとしていた息子の死を嘆きます。彼は神様が自分の勝利と反抗する息子の命を守ってくださると思ったのです。このように神様のなさったことを嘆いたのでした。そして彼の部下は勝利を祝いながら街に来るのではなく戦に負けたようにやって来ました。 神の心にかなった王であったのに、民の神の御手の業の喜びを台無しにしました。励まされるべき時に失望を招きました、まさに悪に代わってそのはたらきに加担したかのようです。 "シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。" マタイの福音書 16章16~18節 イエスにとってなんて素晴らしいことでしょうか!彼らには分かっています。聖霊様が働きを始めています。本当に神様が後にペテロを用いて教会を建てます。 これから何が起ころうとしているかを、神様は共有されます。 御子イエス様が十字架で死なれ、三日の後によみがえられることにより人間を救われるという素晴らしいご計画です。 奇跡的なことを神様がされようと言う全ての人に喜ばしい瞬間のはずでしたが… けれども、聖霊のはたらきを受けたばかりであったペテロが自身の自由意志でサタンのわざに加わります。 神様の願われるはたらきや、イエス様の父なる神に従いたいという思いを非難したのです。また、ここではそのはたらきがペテロの願っていたようなものではなかったことがわかります。ペテロの願いはメシアがローマ帝国と戦ってユダヤの王国を築くことであって、ローマ人の手により死ぬことではありませんでした。 このことでペテロは途中から、よみがえりについてもはや聞こえていない様子です。これは喜びをもたらすはずだったものを怒りに変えてしまいました。その場を台無しにし、イエス様はそれを指摘しました。 "しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」" マタイの福音書 16章23節 ペテロよ、おまえは私の教会を建てる基礎の岩になるべき者なのに… まるでサタンのようなことを言って、彼のわざのようなことをし、私を阻んでいるのだ。 私は宮の基礎について嘆いたイスラエルの民、ペテロがイエスを非難したことも、ダビデが主の勝利を台無しにしたことも罪に定めようとは思いません。私自身が自由意志でその場を台無しにするようなことを言ったことも罪に定めません。私たちはみな、時として弱い者です。 いつもすべてのことについて感謝を捧げる 私や皆さんはそのように弱い存在であるけれども、神様のしもべとして神様のわざに向かう時、もっと別の役割があることを伝えたいのです。 何事も、誰をも裁かないと言うことが私たちの役割だと覚えていられれば悲しみを免れるし、サタンのわざに加担することもなくなるでしょう。裁く方はただお一人です。良いことも悪いこともそのはたらきはこの方により裁かれます。私は自分が目にするどんなはたらきをも裁く立場にはありません。 "他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。" ローマ人への手紙 14章4節 "しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。 私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。 ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。" コリント人への手紙 第一 4章3~5節 つまり私は神様や神様の僕のいかなるはたらきをも裁く必要もなく、そうするべきでもありません。それが私の役割ではないからです。その資格が与えられていないのです。その資格がある方はお一人です。今隠されていることに光を当てて人の心を明らかにすることのできる方。それは神様ただお一人、また神様の役割であって、決して私の役割では無いのです。 神様と神様のしもべのはたらきに対して、私の役割が何か、つまり何に心と力を注ぐべきなのかというと、それは感謝と賛美です。この日、神の民はまさにこのことをすべきだったのです。 11節で民がしていたように神様に感謝と賛美を捧げることです。 "詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。" エペソ人への手紙 5章19~20節 私たちの主、イエスキリストの御名で、いつも、すべてのことについて父なる神様に感謝すること。 「いつも」これはどんな時期でも — ソロモンの時期でも、ゼルバベルの時期でも、です。いずれも感謝を捧げるべき時です。 大きなこと小さな事すべてに感謝をするということです。 たとえ

私たちのミニストリーと教会の活動はここ2年間コロナウィルスの影響で今までと全く異なるものでした。神様は以前居られたのにこのところ私たちと共におられなかったわけではなく、過去とは異なる方法で確かに私たちと共に居てくださいました。以前、私たちは大きなイベントが出来て、会衆が大勢居たことで神様が共におられるととらえました。当時はそのことを喜び感謝しましたがこの時期は異なりました。もはや大きなイベントは必要とされません。多くの日本国内の教会が閉鎖を選ぶ中、教会の門戸を開き続けようと言う決断さえも葛藤となりました。ここ2年間毎週日曜日に教会の礼拝を持てたと言う事実そのものが神様の御業です。他の時期とは異なっていても、神様の御業です。同様に喜び感謝すべき時期です。 まとめ 神様の敵であるサタンの仕業は殺すことです、神様のはたらきを台無しにすることです。それは私の役割では無いので、してしまったら悔い改める必要があります。 神様の役割はすべての人を、ご自身のしもべと他者をその手のはたらきによって裁くことです。それも私の役割ではありませんから、それをしようとしたならば悔い改める必要があります。 すべてのことについていつも主イエスキリストの皆で父なる神様に感謝を捧げること、これこそ私の役割です。

ですから私はこのことに取り組みたいのです。 アーメン




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