Japanese Translation: Ezra 5:1-5 (Message: Pastor Robinson / Translation: Aki Amemiya)


よく考えよ

エズラ記5:1-5を読む


さて、預言者ハガイと…

さて、先週はエズラ記から、神の民の敵が、神殿を再建しようとしている神の民の働きを止めようと、戦いを挑んできたことを見ました。最初の攻撃は、妥協でした。その土地の人々は、イスラエル人と混血したアッシリア人で、ヤハウェとアッシリアの両方の神々を崇拝していましたが、民のところにやってきて、神殿を建てるのを手伝うと申し出たのです。彼らの思惑は、やがてこの小さな集団が、イスラエル人の最後の集団がそうであったように、自分たちの民族の中に吸収されていくだろうというものでした。そして、彼らの影響力によって、神殿もまたすぐに偶像崇拝とヤハウェへの崇拝が混在するようになるのです。私たちの敵がよく使う戦術です。私たちに妥協させ、神を礼拝しつつも、自分にとって役に立つと考える罪とうまく付き合うように仕向けるのです。問題解決のために、罪による自己治療さえも行います。しかし、これらの罪は決して手なずけられるものではなく、気付かぬうちにあなたの人生を支配してしまうのです。

しかし、神の民は妥協せず、彼らと一緒に神殿を建てたり、彼らや彼らのやり方と一つになったりはしませんでした。そして、後にサマリア人と呼ばれるようになるこの土地の人々からの、80年にわたる攻撃と敵対の時代が始まりました。サマリア人は、お金を払って言いがかりをつけさせたり、当時権力のあった色々な王様に手紙を送ったりしていましたが、何の効果もないように思えました。しかし、その時、彼らはイスラエルの民の歴史を利用することを思いついたのです。彼らはアルタクセルクセス王に手紙を書き、記録文書を開いて、このエルサレムという都市が反抗的で自分たちを治めてきた王たちを傷つけてきたこと、この町が滅ぼされたことはそのためであったことを理解してくださいと頼みました。そして、記録文書を見ると、それは100%事実であることがわかったのです。結局、バビロンの王がエルサレムを支配していた時代に、その当時の高慢な王が反抗し、それがイスラエルの滅亡と捕囚につながった経緯があったのです。このことが王を納得させ、王は自分が再度命じるまでは町の工事をやめさせるよう命じたのです。

そして、ここで問題なのは…イスラエルの人々はそれに異議を唱えなかったということです。彼らは自分たちを弁護する手紙を王に送りませんでした。自分たちの歴史を恥じ、おそらくそれを克服する方法はないと考え、試そうともしなかったのです。そして、16年間も工事が止まってしまいました。たった4年で建てられた神殿が20年も再建されなかったのは、彼らの歴史がその作業を思いとどまらせたからです。そして、これは今日も敵が私たちにしようとしていることです。記録文書を開き、過去を思い起こさせ、それを克服する方法がないように思わせるのです。神のわざを行うに値しないという非難を私たちに抱かせるために。

そして、それから16年後になりました。人々は神の御業を無視し続けてきました。神殿とエルサレムの建設を無視していました。ただ、自分たちの生活を他のことで満たして、それについて考える必要がないようにしていました。自分の仕事や家、作物で人生を満たそうとしました。自分たちのもので。

聖書にはこう書かれています。

兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします。

― 2テモテ2:4

先週も言ったように、自分の用事に気を取られて兵を募ったお方のことを考えない兵士は、敵にとって何の脅威にもなりません。ですから、この時点では攻撃は止んでいました。彼らは快適な生活を送っており、自分自身や自分のやりたいことに没頭していたのです。最後の16年間は。

なかには次のように考える人もいるでしょう。「そういう快適な生活を送る方がいいのではないか。敵のレーダーに引っかからないようになるし、敵や人々から攻撃されなくて済むのだから。ただ自分のことだけを考え、自分を喜ばせ、私自身の幸せを追求する。それはとても満足のいく人生になるのではないか?」

そう思うでしょう。しかし、そこにはハガイがいるのです。彼は現れると、人々が過去16年間に生きてきた人生について、異なる視点を与えてくれるのです。

では、聖書を開いてハガイ書を見てください。1章を開いて4~11節を読みます。

3 すると預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。4 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」5 今、万軍の主はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。6 多くの種を蒔いても収穫はわずか。食べても満ち足りることがなく、飲んでも酔うことがなく、衣を着ても温まることがない。金を稼ぐ者が稼いでも、穴の開いた袋に入れるだけ。」7 万軍の主はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。8 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。――主は言われる―― 9 あなたがたは多くを期待したが、見よ、得た物はわずか。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。――万軍の主のことば―― それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがそれぞれ、自分の家のために走り回っていたからだ。10 それゆえ、あなたがたゆえに、天は露を滴らすのをやめ、地はその産物を出すのをやめた。11 わたしはまた、日照りを呼び寄せた。地にも山々にも、穀物にも新しいぶどう酒にも油にも、地が産み出す物にも、また人にも家畜にも、手によるすべての労苦の実にも。」

― ハガイ書 1:3~11

万軍の主である神が、あなたがたの歩みをよく考えよ、と言われる…これは強力です。あなたが何をしてきて、どのようであったかを考えなさい。これはハガイの非常に実用的なメッセージです。

彼らはまさにやりたいことをやっている。自分たちの用事に集中しているのです。自分の家のことに。自分たちのものに。彼らは板張りの家に住み、多くの種を蒔いた。彼らは食べ、飲み金を稼いでいる。彼らは多くを期待し、自分の家のために走り回っていました。

それは、聞こえは良さそうですが、重要なことは、このように自分のことに集中して生活していても...彼らは思うようには満たされなかったのです。彼らは多くの種をまき、自分の作物に多くの労力を費やしましたが、収穫はわずかでした。ほとんど収穫がなかったのです。何を食べても、満足しない。酒を飲んでも、決して満たされることはない。一生懸命働いて稼いでも、それを穴のあいた袋に入れているようなもので、何も貯めることができないのです。彼らはただ、目の前の請求書の支払いに精一杯です。自分の用事に全精力を注いでいる。自分が幸せになるために努力しても日照りがきます。すべてが乾ききっているのです。

その理由は…彼らが、神様に召されたことをしていないからです。神は彼らのために目的を持っていました。この民の人生には特別な召命がありましたね。特別な重荷です。彼らがまだペルシャにいたとき、神はエルサレムに神の宮を再建するために彼らの霊を奮い立たせたと書いてあります。彼らには目的がありました。彼らが行うよう召された使命、重荷です。

そして、これ彼らだけの話ではありません。神様は私たちにも同じことをしてくださるからです。もちろん、神は似たような使命を私たち皆に与えてくださっています。以前にもお話しましたが、私たちは神様から与えられたものを使って、教会を、そして互いを建て上げるよう召されています。ですから、私は証しを喜んで分かち合ってくれた人たちから祝福を受けています。証は私たちに与えられているもので、教会の外にいる人々に伝道するためのツールだからです。なぜなら、証しに意を唱えることはできないからです。聖書に異議を唱えることができます。歴史的な事実にも異論を唱えることができます。しかし、これは私が人生で経験したことです。このように神は私を導いてくださいました。神は私をこのように変え、私のうちに働いてくださったのです…と話す時、それに異を唱えるのは難しいのです。

先週、私たちの証しは敵に対抗する武器であるという話をしました。敵が私たちを非難するとき、私たちは神がなさったことを思い起こすことができるのです。その血潮は私たちの上に注がれています。そして、イエスが、ご自身の血によって私たちは義とされていると言われるなら、誰がそうでないと言うことができるでしょうか。

それは教会にいる人たちを励ますツールです。自分自身と証しを教会の家族と共有することで、他の人々の信仰を励ますのです。ああ、私も同じような状況にあったけど、神様はこのように働いてくださったよ。神様はあなたにも同じことをしてくださるよ、と。私たちは証しなど、与えられたものを使って教会を建て上げるように召されています。それが私たち全員の使命なのです。

しかし、神はまた、私たち全員に特別な重荷、具体的な仕事も与えてくれていると思います。そのことを考えたり、見たりした時に、黙って座っていられないような、何かしなければならないと感じるようなことです。

このことは、神殿を建てるために召された人々にも見て取れます。彼らはペルシャで居心地良く腰掛けていたのですが、神は、彼らがもはやそうしてはいられなくなるようにされました。神の神殿が瓦礫の中に横たわっていることを考えると、彼らはじっとしていられなくなったのです。何とかしなければならない。このように、神は彼らに神殿再建の重荷を与えたのです。このことは、後のネヘミヤにも見られます。彼は楽な生活を送り、王宮で王の献酌官をしていました。しかし、彼はエルサレムの現状についての知らせを聞きました。民は自分たちを守るための城壁さえ持っていなかったのです。彼はもう現状に甘んじて王宮にいることはできませんでした。彼は城壁を再建しなければならなかったのです。神は彼にその重荷を与えました。

そして、重荷にはいろいろな種類があります。私は、おもてなしに重荷を負っている人をたくさん知っています。

初めて日本に来たとき、私は独身で、同じく独身男性のルームメイトと暮らしていたので…なかなかヒドイ状態でした。私たちが食べたコンビニ食品やカップラーメンの量といったら...ただただ驚きの量でした。それには世のはじめからの理由があります。神はご自分が造られたすべてのものを見られ、非常に良い…と言われました。これは良い、と。しかし、すべての被造物の中で唯一、ひとりでいる人間を見て、こう言われました…これは良くない。独身の男の人生は、きれいなものではありません。でも、私たちの周りには、もてなしの重荷を持って私たちを家に連れて行き、時おり健康的な家庭料理を食べさせてくれる人たちがいたんです。私たちの面倒を見てくれた人たちです。

そして、子ども達のためのミニストリーに重荷を持っている人たちもいます。彼らは子ども達に惹かれ、子どもたちを助け、愛情を注いでくれます。そして、私の子ども達をここ町田に連れてくることで、ホライズンにはそのような重荷を持った人たちがたくさんいることがわかりました。子ども達にとって、日曜日は一週間のうちで一番良い日です。それは、子ども達を愛するという重荷を持っているみなさんのおかげです。

また、与えることに重荷を持っている人もいます。教会を見渡して、日曜学校に新しい色鉛筆が必要だと思うと、次の週には色鉛筆を手に教会にやってくるのです。また、テレビが必要だ、となると、翌週にはもうテレビがあります。私たちが人々に仕え、人々の必要を満たすために必要なものを持っているのは、神様が人々の心にこのような重荷を与えてくださったからなのです。

そして、何が最も私たちを満たすかというと...自分が重荷を持っていることを行うことなのです。繰り返しますが、神からの真の重荷というのは、痒いところがあるようなものです。何か手を打たないと、じっとしていられない。そして、それについて何か行動するとき、まるで痒いところを掻いた時のように、とても満足です。あなたが手に入れた鉛筆で子供たちがとても楽しそうに絵を描いているのを見たり、あなたが用意した料理を人々が喜んで食べているのを見たり、神様があなたに重荷を与えていることをする、それが最高のことなのです。だから、ポットラックにはたくさんの喜びがあります。ポットラックはほとんどお祭りのように感じられるのは、なぜでしょう。それは、それこそが、神があなたがたを召しておられることだからです。共にパンを裂き、分かち合うことです。

神が重荷を与えてくれたことをする...それは神があなたに持っている目的を成し遂げることであり、神があなたを形造られた特別な方法に人々の注意を向けることなのです。だから満足感があるのです。

しかし、重荷をそのままにして行動しない時、同じエネルギーを使って自分自身を満足させようとしていると…思ったようには満たされないものなのです。

自分のための料理は、誰かのための料理ほど満足できるものにはなりません。そういうものなのです。

自分のために何かを買う…それは満足だと思うだろうし、少しはそうでしょう。でも、誰かにプレゼントするほどの満足感はありません。

もちろん自炊もしますし、自分に何も買うなと言っているわけではありません。しかし、先ほども言ったように、私たちは三位一体の神、完全な共同体の似姿に作られています。だからこそ、自分に与えられた意味や目的は、いつも共同体の中で果たされます。それは私たちが最高の状態で最大限に生かされる場所なのです。

だから、私たちは自分の重荷が何なのか、自分自身に問いかけなければなりません。神があなたにするようにと言われたことは何なのか。どうしても納得のいかないこと。何か行動しなければ気が済まないこと。それは最近与えられたものかもしれませんし、何年も前に与えられた重荷かもしれません。いずれにせよ、それをするのです。

イスラエルの民は16年間を自分たちのために生き、神は彼らが決して満たされなかったその16年間の歩みをよく考えるようにと呼びかけました。なぜでしょう?なぜなら、この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。わたしが与えた神殿を建てるという重荷のかわりに、自分自身のためにエネルギーを使っているからだ。そして神は言われました。あなたがたは満たされたいのか... 

神殿を建てよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。――主は言われる―― それこそ、16年間に行ったどんなことよりもあなたがたを満たすもの、わたしが最初の与えた重荷である。

そして、これらのことをよく考えて、彼らは工事を再開しました。主の働きに取り掛かったのです。

彼らがまず考えなければならなかったのは、自分たちの歩みをよく考えることでした。今までどのように生きてきて、どのように歩んできたのか、このままの生き方を続けたいのかどうかをよく考えよ。非常に実践的なメッセージです。

さて、預言者ゼカリヤは…

しかし、彼らにはそれ以外にも、よく考えなければならないことがありました。なぜなら、神はハガイだけでなく、さらに預言者ゼカリヤも遣わして、彼らに別のメッセージを与えました。それは過去16年間についての現実的な、原因と結果について語るメッセージではありませんでした。その代わりに、ゼカリヤのメッセージは彼らに『アポカリプス』(=啓示 または 黙示録)を与えたのです。

さて、ここでもう一度、ギリシャ語の『アポカリプス』は、現代使われているように世界の終わりというような意味ではないことを思い出しましょう。その代わり、『アポカリプス』という言葉には、覆いを取り去るという意味があります。今まで見ることができなかった、ものごとの本質を見ることです。しかし、何が明らかになるのでしょうか?

私たちが目にすることのできるこの物理的な世界の裏側には、霊的な世界があることを私たちは知っています。目で見ることができる実在のものの背後には、同じように真実で、私たちの生活に同じように影響を与える、私たちが見ることができない別のものがあります。

『アポカリプス』(啓示)とは、いわば神がこの世の覆いを取りのけて、その背後にある霊的な領域で何が起こっているかを誰かに明らかにすることです。ヨブ記では、覆いが取られて神の御座の間が見えるという啓示が描かれています。使徒パウロも道中で、自分が破壊しようとしていた教会の背後に復活したイエスがおられるのを突然見るという啓示を受けました。

そして、ゼカリヤも、主から啓示を与えられました。その啓示は、次の箇所に見られます。

1 主は、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアを私にお見せになった。サタンが彼を訴えようとしてその右手に立っていた。2 主はサタンに言われた。「サタンよ、主がおまえをとがめる。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめる。この者は、火から取り出した燃えさしではないか。」3 ヨシュアは汚れた服を着て、主の使いの前に立っていた。4 御使いは、自分の前に立っている者たちにこう答えた。「彼の汚れた服を脱がせよ。」そしてヨシュアに言った。「見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。」5 私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。6 主の使いはヨシュアを諭して言った。

― ゼカリヤ 3:1-6

この箇所にあるように、ゼカリヤは、当時ゼルバベルと共に働いていた大祭司ヨシュアと二人の霊的存在が一緒にいるのを見ます。一人は主の使い、もう一人はサタンで、彼らはヨシュアについて会話しています。

サタンはヨシュアの右手に立ち、主の使いの前で彼を非難しています。そして、大祭司ヨシュアが非難されている内容は真実だと思われます。この啓示で、ゼカリヤはヨシュアが不潔なぼろ布を着ているのを見ているからです。祭司はもちろん不潔な衣服は着ません。祭司は上等な麻布を身にまとうものです。しかし、ゼカリヤがここで見ているのは、ヨシュアの身に起きている霊的な真実です。

不潔な衣服は、罪によって汚されることを霊的に表しています。つまり、ヨシュアの過去または現在に何らかの罪があり、それが彼を汚しているようです。そして、サタンは、この罪のために、ヨシュアが大祭司にふさわしくないと非難しているようです。彼は敵から非難されているのです。

16年前に王の決断に対して戦おうとしなかったのは、このためかもしれません。敵が私の国の歴史に踏み込むなら、私自身の歴史にも踏み込んでくるのではないか。そして、私のしたことで、誰もが、私は主の御前に仕えるにはふさわしくない者だと言うだろう。しかし、ヨシュアの心の中でも、霊的な領域で何かが起こっていて、それが工事の再開を妨げていたのです。それが、この16年間、ヨシュアの足を引っ張る原因となっていたのです。彼は裁きの中に生きていたのです。

しかし、この場面にはサタンだけが登場するわけではありません。主の使いが登場します。主の使いは興味深いキャラクターで、旧約聖書の至る所に登場します。この箇所のように、この御使いが登場するたびに、この御使いが神とは異なる存在として描かれたり、神と同じ存在として描かれたりするのが面白いのです。この箇所では、サタンが主の使いと会話しているのがわかります。しかし、次の瞬間には、話しているのは主、ヤハウェであると書かれています。そして最後には、主の使いがヨシュアを諭しているところに戻ります。つまり、主の天使はヤハウェでありつつも、ヤハウェとは異なる存在なのです。

そして、このことから、聖書の別の一節を思い浮かべることができるはずです。それは、ヨハネがイエスご自身をどのように描写したかを思い起こさせるものです。

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

― ヨハネ1:1

主の使いの記述と非常によく似ています。そのため、神の神性を共有しながらも、神が人類に自らを現わされるときのこの存在が、実はイエスご自身であると多くの人が考えているのです。

そして、その存在のなさる働きについても説明がつきます。サタンが非難している間、主の使いはヨシュアのために何をしてくれているでしょう。イエスが私たちのためにしてくださることと同じです。ヨシュアのために執り成してくれているのです。

そして、ここが最も重要なポイントです。ヨシュアがしたことを基にして執り成すのではありません。そうではなく、自分がなさったことを基に執り成してくださるのです。

この者は、火から取り出した燃えさしではないか。

そう、彼は破壊されるべく火の中にいた。しかし、わたしは彼を救い出した。

見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。

そうだ、ヨシュア、あなたは罪を犯し、自分を汚してしまった。しかし、わたしはあなたの罪を取り去り、このきよい衣をあなたに着せよう。彼が機能できるのは、彼自身の義のもとではなく、彼に与えられた義によるのです。

ハガイが民にこの16年間の満たされない人生を考えさせるために用いられたように、ゼカリアはヨシュアに、主の使いが彼のためにしてくださったことを考えるよう呼びかけるために用いられています。ヨシュアは自分自身の行いによって、汚れた者とされましたが、主の使い、つまりおそらくイエスご自身によって、彼の汚れは取り除かれ、主の前に仕えることができるようにきよい服が与えられたのです。

そして、ヨシュアは再び働き始めた。そして、敵が再びやってきて彼らを非難しても、やめなかったのです。

そしてまさに、この啓示は私たちにも同じことを考えるよう呼びかけています。そこには、私たちのために行われることが描かれているからです。私たちは、主の前に仕えるように召された祭司たちの御国です。それは怖いことでもあります。私たちは自分が作ったしみを見て、自分は傷物だと感じてしまうことがあります。神様に仕えるに値しない人間だと。そして非難の中に生きてしまうこともできます。しかし、よく考えてみてください…自分が何をしたかを考えてはいけません。それは落胆につながるだけだからです。

私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎は風のように私たちを吹き上げます。

― イザヤ64:6

その代わりに、イエスがあなたのためにしてくださったことを考えましょう。彼はあなたのボロ布を除きました。あなたが修復できないほど汚してしまったこの服を、脱がせてくださったのです。そしてご自身の義を着せてくださいました。それは十字架の御業です。あなたが主の前に仕えるのは、あなたの行いによるのではなく、イエスの御業によるのです。彼があなたのためにそうしてくれたからなのです。大小にかかわらず、主があなたに召されたことから、何一つあなたを止めるものはないのです。

そして、もしかしたら、召されてから何年も経っているかもしれません。ヨシュアのように、非難されることによって、神があなたに求めた仕事を果たせず、機を逃したと感じているかもしれません。もう手遅れだと。自分自身に問いかけてみてください。イエスの御業は変わったのでしょうか。イエスがあなたに与えてくださった義には期限があるのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。子羊の血はその力を失いましたか。いいえ、そうではありません。

ヨシュアの場合、召命のもとに戻るまで16年かかりました。荒野にいたイスラエルの民は、召しに戻るまで40年かかりました。どんなに時間が経っても、今日、それを取り戻すことができるのです。主があなたに語ったこと、主があなたの心に置かれた重荷を。今日、あなたは再びそれを拾い上げることができます。イエスがあなたのためにしてくださったことのゆえに。

まとめ:

イスラエルの民は、考えなければならないことがたくさんありました。彼らは16年間、自分たちのために生きてきたそのやり方を考えなければなりませんでした。それがどれほど不満足なものであったか。どれほど満たされなかったか。そして、何年も前、まだペルシャにいた頃に彼らの心に置かれた重荷に従うことが、真の充足への道であることを考えなければならなかったのです。ヨシュアもまた、考えなければなりませんでした。主の使いが彼のためにしてくれたことを。彼はきよい服を着て、罪が取り除かれ、主の前に仕えることができるようになったのですから…そろそろまた働き始める時が来たことを。

主は私たちにも、良く考えるよう召しておられます。私たちがしてきたことを考え、そして、主イエスが私たちのためにしてくださったことを考えることを。そして、心に与えられた重荷に従って踏み出し、召されたことを行うことを…私たち自身という神殿、主の教会を建てるために。

アーメン




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