Japanese Translation Genesis 12:7-20 (Translation by Akiko Takeda)

Updated: Nov 11, 2020

Genesis 12:7-20

創世記 12章 7-20節


神の約束

導入:大きな失敗をしたことはありますか? 何か判断を間違えて思ってもみないことをしたような経験はありますか。今日の話ではアブラムがそのような事態に陥り、試練を通り、窮地で悪い決断をしてしまいます。

結末は、彼の誤った判断を通してエジプトの地へ行き、自身の妻を他人に譲ろうとしてしまいます。エジプトや最悪の状況下でも確固たる神の約束が実現することを学びます。

創世記 12:7-20 を読みます。

"主はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこに主のための祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。 アブラムはなおも進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。 その地に飢饉が起こったので、アブラムは、エジプトにしばらく滞在するために下って行った。その地の飢饉が激しかったからである。 彼がエジプトに近づいて、その地に入って行こうとしたとき、妻のサライに言った。「聞いてほしい。私には、あなたが見目麗しい女だということがよく分かっている。 エジプト人があなたを見るようになると、『この女は彼の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくだろう。 私の妹だと言ってほしい。そうすれば、あなたのゆえに事がうまく運び、あなたのおかげで私は生き延びられるだろう。」 アブラムがエジプトにやって来たとき、エジプト人はサライを見て、非常に美しいと思った。 ファラオの高官たちが彼女を見て、ファラオに彼女を薦めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。 アブラムにとって、物事は彼女のゆえにうまく運んだ。それで彼は、羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。 しかし、主はアブラムの妻サライのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれた。 そこで、ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私に何ということをしたのか。彼女があなたの妻であることを、なぜ私に告げなかったのか。 なぜ、『私の妹です』と言ったのか。だから、私は彼女を自分の妻として召し入れたのだ。さあ今、あなたの妻を連れて、立ち去るがよい。」 ファラオがアブラムについて家来に命じたので、彼らは彼を、妻と、所有するすべてのものと一緒に送り出した。"

アブラハム、エジプトに下る

さて、今日の個所でアブラムはついに神が仰せになったようにエジプトの地にやってきます。

神が約束を告げられた時、彼はウルの地に暮らしていて先週のメッセージでこの約束の4つのポイントを学びました。

1.わたしはあなたを偉大な国民とし

2.あなたの名を大きくしよう

3.あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう

3.地のすべてのやからは、あなたによって祝福される

この約束によって彼の家族はカルデア人の地ウルを出発します。

1. 国を出て

2. 父の家を離れ

3. 親族と別れ

アブラムが国を出たことで神の約束を信じていたことがうかがえます。けれども彼は父親の権威のもと、親族と国を出たのです。もしこれが契約であれば、この時点で無効ですね。契約の義務を果たしていないので契約は無効になります。部分的にしか従っていないにもかかわらず約束は不変です。さらに主を試して、アブラムは主ではなくて自身の父であるテラを重んじます。もし誰かが良い話をくれ、皆さんがそれに受けるのに15年も待ったならどうなるでしょうか。その話はもはや無効でしょう。

例え:私はジョナサンの、割引券をもらえるキャンペーンが大好きです。その券はいろんな割引額で、100円分、とかフライドポテトがもらえるくらいだったり。ある時もっとすごい券をもらったんです。ステーキ膳が300円で食べられる、みたいなものです。とてもうれしくて、財布にしまってみるたびに今度行ったらステーキを食べよう、と思いました。ワクワクしていたんですが、有効期限を見落としていました。一か月後にステーキを食べに行ったら、期限が切れていました。無効な券だったのです。

これは一か月です。でも15年後にまだこの約束は有効でした。

アブラムの父親が亡くなり、遅れてこのように先延ばしにしたけれども神の良い話を受けようと出発します。約束はいまだ彼のために残っていました。15年後でも有効でした。親族のロトをまだ伴っていたにかかわらず。

カナンの地に到着しました。そこで主は、ご自身の憐みで神の約束にアブラムがとどまっていたことを明らかにされます。神がそこで既に受けたものに加えてさらに約束を与えられたのです。

創世記 12章7節 "主はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。"

アブラムが祭壇を築いて礼拝をもって応じたことで神の言ったことを理解したのがわかります。

ところが飢饉がやってきます。食料がなくアブラムの試練がはじまります。

この話題は前にも話していますが、私たちは試練をよくないものだと思います。でも実際は自分たちが本当にわかっていることとわかっている、と思っていることをみえるようにして私たちの成長をたすけるものです。もう学んだと思っているけど本当は全然学んでいないこともあります。本当にわかっているかは口で言うのは簡単ですが試されるとぼろがでます。

例え:

日本語を学んできた過程を思い出します。

初めて日本に来た頃は何にも知らず、この単語はわかるか、など人が聞いてきました。実は初めはなんにも学ぶ気がなくて、知らない単語にぶつかる度に立ち止まっていたら会話がなりたちません。なので何となく予想ができるときは「わかる」と言いました。わからなくても、きっと続く文章でたった今言われたことがわかる、と期待しました。話をさえぎらないようにわからないけどわかることにしていたけれど時々試されるのです。これって英語でなんて言うの? うーん、 ・・・それは英語にないと思う   あれ? Sheepって言うんじゃなかった? あー・・・そうそう、そうでした。・・・試されると本当は知らなかったということは明るみに出てしまいました。

同様に、飢饉の間アブラムは試されていたのです。

アブラムに与える地だと神が仰せになり、彼に約束されました。彼は祭壇を立てて主を礼拝して、それを理解したようでした。表面的には理解したようでしたが本当に自分が受けたと信じたものを見捨てるでしょうか。そんなことはしないでしょう。

例え:皆さんは自分のものでなく、他人のものであれば気にかけないでしょう。どこかに財布を置いておけばすぐになくなる。でも自分のものだと思うものを簡単に見捨てたり手放しますか?大切に守って放ったりしませんよね。人のものであればそのままにしても気にならないでしょう。道で誰かのカギを見つけたとしたら、フェンスか何か見えるところにおいてあげるかもしれません。そのままにすることも抵抗がないでしょう。なぜなら自分のものではないから。

アブラムの行動を読み、彼が自分自身のものがと自覚しているもの、そうでないものを見てみましょう。

彼はどうしたかというと‥、立ち去ります。自分が約束されたものを投げ出します。この時点ではまだ約束されたものを受け取っていなかったのでそれを逃すことが容易でした。

必ずこうなるとは限りません。アブラムもわかる日がきます。けれどこの時点では恐れのために自分自身に約束されたものを危険にさらします。

ですが恐れというのは厄介なもので、恐れに従って歩めば、常にまた何かほかに恐れるものが出てきます。

アブラムが飢饉を恐れてエジプトに逃れたのち、新たな恐れが心にやってきます。不思議にもこの恐れは自身の妻の美貌からやってくるのです。彼女があまりに美しいのできっとエジプト人が嫉妬して自分を殺すと恐れたのです。おかしな感じですがあながち的外れでもなかったと思います。その地で、パロは彼女がとても美しいのを見て、結婚を望みます。これを見ると恐れるだけのことがあるといえます。

これはこの恐れに彼が負けるかどうか、だけでなくて本当に神のことに聞き従っていたかも試していると思います。本当に何か約束されているか彼が理解したのか...。

神はアブラムを大いなる国民としよう、と言われたけれどもその時点で、いまだに子供が与えられていませんでした 

アブラムが神が本当に自信を大いなる国民とされると信じたのならば神から子を授かる前に自分が死ぬことがないと理解したはずです。そして妻にもうそをつかせる必要も、エジプトで妻を手放す必要もなかったのです。

そしてある日神がアブラムを大いなる国民とすることを信じ、それが彼の義とみなされることになります。その神の約束の深みを理解する時が来ます。でもまだその時ではなかったのです。

恐れたアブラムは妻にあなたは私の姉妹であると言うように伝えました。そしてパロが結婚を求めれば何も口出ししないのです。恐れたあまり神から自分が受けた約束を危険にさらします。危険というどころか妻をあきらめようとしているのです。イスラエルの民の母になるはずの女性です。神からの約束の大いなる国民とされることもあきらめる寸前です。子孫なしには彼の血筋が途絶えてしまいます。

アブラムの信仰の試練を通して、本当に彼自身がしてしまったことを理解していなかったことがみてとれます。また恐れのために約束された地は妻を他人へ手放そうとします。

けれども主は...

これがおとぎ話ならば彼は当然の報いを受けます。「彼は栄えず、完全に妻を失って約束をいただくこともなく、一文無しで死んでしまい、彼の血筋は途絶えたのでした・・」当然の結末だと思えます。このようにならないように気を付けましょう、という教訓で。彼のようにならないように善い行いをするように。

ところが実際は期待する道徳的教訓とは全く別の結論が待っています。

15節で、アブラムはパロに妻を明け渡します。この卑劣で卑怯な行動に読み手としては彼に懲らしめがあるよう願います 彼がこの行いの報いを得るように・・16節で、アブラムが好待遇を受けます。

創世記 12章16節

"アブラムにとって、物事は彼女のゆえにうまく運んだ。それで彼は、羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。

え? どういうことでしょう。この人は嘘つきで卑劣なことをしたのに富むなんて。こんな道徳の教訓があるでしょうか 「こどもたち、正しいことをしなくても良い、恐れによって行動すると富むんだよ」

私たちはこう考え始めるかも知れません:「わかった、とても裕福になるけど結局は全部使う前に死んでしまうんだ、失敗が倍になってかえって来る、みたいに。きっとお金をたくさん得るけどひどい病気にかかって一銭も使えないまま死んでしまってもっと善良な人がそのお金をもらうんだ」

よくある道徳の話ならこうなりますね。日本昔話にもありますね。

これは、花咲じいさん的ですよね。隣の人は花咲じいさんをしつこくいじめ、騙して金持ちになろうとするけれど狙っているお金が手に入りません。金を得ようとして蛇が出てきます。

私たちは、頭の中でアブラムの身に何が起こるか先読みします。

読み進めると、サライを手放してから苦しみがやってきます。が、アブラムではなくパロに。罪深い者でなくて無実な人が苦しめられるのか? 騙されたのに花咲じいさんのところに蛇が出てきて、隣の人が金を得るようなことです。文字通りこれはそんな状況です。 

どういうことでしょう。

パロの家が苦しみにあってついにパロが状況を理解します。アブラムが嘘をつき、サライが彼の妻であることを隠したと。

創世記 12章16節

"アブラムにとって、物事は彼女のゆえにうまく運んだ。それで彼は、羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった・・・12章18~19節"そこで、ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私に何ということをしたのか。彼女があなたの妻であることを、なぜ私に告げなかったのか。 なぜ、『私の妹です』と言ったのか。だから、私は彼女を自分の妻として召し入れたのだ。」

妙な展開ですがこれで納得のいくような流れになってきました。この人は王を騙して、やっと王がそれに気づくわけです。この人は窮地に立たされています。教訓:権威に従わないとこの人のようになってしまう。

創世記 12:19b 「…さあ今、あなたの妻を連れて、立ち去るがよい。」

...?!

創世記12章20節

パロは彼のことについて人々に命じ、彼とその妻およびすべての持ち物を送り去らせた。

そしてこれでおしまいです。

うそ?!

アブラムは‥自身に約束された地を見捨てて、他でもない王にうそをついて自分の卑劣さのために妻を見捨てます。それでも苦しみにあわないで、代わりにパロが苦しみにあいます。無実だったパロが。アブラムは裕福になり、妻を返していただき、罰を逃れるなんて。

全然理解できない、どういうことでしょう。この話の趣旨はなんなのでしょう。

この展開に納得が行かない訳は、話の出来事よりはるかにスケールの大きなことが進められているからです。この展開の背後にアブラムはおろかパロよりはるかに大きなものがはたらいています。そして単なるおとぎ話や人生の教訓よりも大切な気づきをもたらす話なのです。

アブラムは神の約束をいただいていました。約束自体も、本当に自分のものであったことも理解していなかった。けれど神はアブラムに約束を与えました。

この、アブラムが行くべきでなかった土地ですべきでない行動をとったにも関わらず、神の約束がなおそのままなのか、これが重要な問いです。約束は変わりませんでした。この話には神の約束が変わらなかったことの証にあふれています。

  1. 神はアブラムが祝福されると約束された。エジプトで? 祝福されたでしょうか。確かにとても裕福にされました。

2. 大いなる国民と約束された。アブラムはそれを危険にさらすようなことをしたけれども神はアブラムを通して偉大な民を起こす手段を守られたのです。まさに、サライをパロの家において守り、無傷で夫の元に戻るようにされました。

3. 神はアブラムの名を偉大にすると約束された。この出来事の後でエジプト中で彼以上に有名になった人がいたと思いますか。いなかっただろうと思います。この話は遠くまで多くの人にひろまりました。

4. 神はアブラムを侮辱する者に呪うと約束されました。さて、アブラムがパロを騙し、パロ自身も知らなかったとは言っても他人の妻を奪うことは侮辱になりますね。そしてパロの身に呪いが降りかかりました。

アブラムは神の約束を完全には理解しなかったがそれによって何の影響もありませんでした。アブラムは神の約束を完全に信じていなかったが、それによって約束が無効となるわけでもありませんでした。アブラムは多くの失敗を犯し、神の約束を危険にさらしました。それで約束を失うことはなかったのです。

アブラムは信仰がなかった、でもその事実は神の忠実さには影響しませんでした。そしてすべてにおいて神は約束を守られました。

私たちは本当によく神の約束を軽く受け止めると思います。はかないものだと思っているのです。まるで自分が忠実なら約束がもらえて自分が失敗すると消えてしまう、とか自分が順調に歩んでいる時だけ叶えられるが道をそれてしまえば実現しない、というように。

またこれは自分が重要であるという私たちの中心にある思いを示すものだと思います。自分たちが中心人物、主要人物ですべてうまく行くか行かないかが自分たちにかかっている。自分たちの成功だけで上に行けて、失敗で低くされる。自分が指揮を執っていて自分の運命は自分にかかっている・・・。

こう考える先には大変な心労と悲しみが待っているでしょう。劇的な展開が頭に浮かんできて多くの偽りを信じるまでになります。失敗し、堕落すればすべて失ってもうこの世の終わりだと思うほどになります。

イエス様は多くの偽預言者が現れると警告されました。ここで、皆さん自身が自分の偽預言者になるのだと知ってほしい。これまで今通っている境地、または自分の失敗がこの世の終わりだ、というようなことを自分自身に語り掛けたことがないでしょうか。そのうち自分が正しかったことはありますか?夜の終わりがやってきましたか。

なんと !

私たちはまたこうして生きています。あなたはこうして生きています。世は終わりませんでした。自分自身に偽預言をしたわけです。自分自身を誤った方向に導いていたのです。

この話はより大きな観点を示しています。私たちの人生には私たちの不信仰や失敗、信仰のなさよりもはるかに偉大な力がはたらいているということ。

その偉大な力というのは私たちがイエスキリストを信じた日に受け取った約束です。私たちの不信仰ではなくて神の不滅の誠実さに基づいているので無効になることなどない約束なのです。

さらに、神は私たちが自分から逸れようとする以上にご自身の御心にとどめる力をもっておられます。

ヨハネの福音書 10章27~30節

"わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。 わたしと父とは一つです。"

誰一人として、そのようなことは出来ません。

当然あなた自身も含まれますね?

アブラムが自力で父なる神の御手と約束のはたらきから逸れることが出来なかったようにあなたは神のあなたの人生への約束やそれを阻もうとするいかなるものがあっても完全に道を踏み外すことはできません。自分自身に対する嘘も含めて。

怖がらないで。揺り動かされないようにしてください。あなたはこの世で最強固な土台に立っているのです。変わることなく、不滅の神の約束です。

これはアブラムのように大胆に罪に陥って疑い、失敗するという意味でしょうか。

ローマ書にこうあります:

ローマ人への手紙 6章1~2節

"それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。 決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。"

私の言いたいことは高みにあっても低いところを歩むときも、あなたのいただいている約束はイエスキリストを信じた日以来ちっとも変っておらず真実であるということです。アブラムのように、あなたが自覚していようと、迷っていようと、その約束は止まることなく進められているのです。約束に強い信仰があるか、アブラムのように弱い信仰なのかにも関わらず。アブラムの置かれていた状況で約束が揺れ動いたりしなかったように、あなたの置かれている状況が何であれその約束は目的を果たします。

そしてこの先数週間かけてアブラムについて読んでいきますが、いつか、私たちの信仰も完全なものとされます。

信仰の創始者であり、完成者でおられるのはイエスキリストであり、私たちではないのです。

おわりに

アブラムが神から与えられた役を苦はすべての紆余曲折にあっても固く保たれました。私たちも全く同じことがいえますから主をほめたたえます。アブラムは神の約束を完全に理解したり信頼したわけでなかったですが、ある日理解して信じます。私たちにもいつかそんな日が訪れるのです。

アーメン






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