Japanese Translation: Genesis 16 (Message: Pastor Robinson/Translation Akiko Takeda)

Updated: Nov 11, 2020

9月13日世田谷

聖書朗読

創世記16章

導入

良いことを意図しても大失敗をしたことがあると思います。

サライは今日の箇所でそんな状況におちいります。弱さと疑いから、サライは夫アブラムにこどもの居ない自分たちへの解決策を提示します。アブラムは何も言わず、その結果気づくと大変なことになるのです。けれども主が彼らの引き起こした状況に介入され、解決します。神様が大変な状況に憐みを下さることを見ていきます。

主が私に授けてくださらない

15,16章の間にかなり時間が経っているようです。前回アブラムの話を見た時は、カナンの地で新しい生活を始めたところでした。

3節によると、カナンについてから10年経っているようです。

15 これで15, 16章の変化に納得がいきます。一つ前の章ではアブラムが少なくとも子孫に関する神様の約束を信じています。

けれどこの章ではアブラム、サライ両方に対して約束が彼らのもとからなくなってしまったような様子です。


時間が経っていて、サライはまだ子どもを産んでいません。先週お話ししたように、待つことは信仰において最も難しいことです。さて、サライは不確かになって色々と考えていることがわかります。どうにか神様が彼女に与えられた約束を待つ代わりの実際的な方法で解決しようとしています。主がまだ下さらないのならどのように子どもを得られるのか。

考えに考えると、選択肢が浮かびました。そして彼女はアブラムにそれを告げます。


創世記

“サライはアブラムに言った。 「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」 アブラムは、サライの願いを聞き入れた。”


ここでこんなことを言うサライを批判するのは簡単ですが、二点、理解して欲しいです:


1. 現代の私たちには不思議ですが、この時代にはそんなに変わったことではありませんでした。

実際日常的な習慣でした。

ある女性が不妊の場合、そばめの一人を夫の第二夫人とし、生まれた子は第一夫人が養子とします。全てにおいてその子は彼女の子どもとなります。

周りの人もその習慣があり、何ら問題なく、論理的な方法とさえ思えたかも知れません。


2. かなり長い時間が経っています。カルデヤ人のウルの地から呼び出された

サライとアブラムが初めて登場したとき、サライについての初めの記載は彼女が不妊であったことでした。


約束により子どもを授かり偉大な民とされることを信じてアブラムは出て行きました。

そこからかなりの時間が経っています。

アブラムの父の箇所から15年間、カナンに住んで10年間です。と言うことは25年間です。

長い時間待っています。そんなに待っているとイライラして失望するのは容易いです。

その弱さの中で自分で解決しようとしてしまいます。

約束を無視し、自身で成し遂げようとします。


これはサライに限ったことではなく、神様のことを待ちながら自分たちで解決しようとする人の話がたくさんあります。


例え:

モーセのことを思います。

未来のイスラエルの指導者としてエジプトから民を救い出す人です。自分の民が苦しみ神様が救われない現実を毎日見ていた彼は自分が40歳になってもまだ救いをみていませんでした。そしてある日奴隷の主人が自分の民にひどい扱いをしているのをみたモーセは、ついには神様が救ってくれないなら自分が、とその主人のエジプト人を殺してしまいました。


ヤコブのことも思います。

ヤコブの母は本人が生まれる前から兄よりも偉大になり兄が弟に仕えるようになると言われました。けれども長い時間が経ち、ヤコブは63歳ほどになっても兄を越えていなかったと推測されます。兄はいまだに父の気に入りの息子で狩りが得意な力強い人でした。

ヤコブ天幕で静かに過ごすタイプでした。一体どうしたら兄より力強くなるのか。そこで彼と母は自分たちの方法で。エサウの長子権を奪うことにします。


騙して兄より優れたものとなろうとしました。私たちもおなじです。何か神様に約束をいただきながらまた与えられない、としびれを切らし失望して行動してしまう。神様の約束が起こらないようなのでその代わりの方法を求めます。私たちがよくしてしまうことです。


神様は平安を約束されました。イエスは“サライはアブラムに言った。 「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」 アブラムは、サライの願いを聞き入れた。”


“わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。”

けれどもあなたもクリスチャンとして正直、平安を欠いたことが何度あるでしょうか。

自分自身に変わりの方法で、約束ではなく、平安をもたらそうとします。そして代わりとなるものもあります。大体は気をまぎらわすこと。心配で平安がない、だからほかのことをして心配の種のことを考えないようにしよう。娯楽、テレビ、映画ゲーム、スポーツなどです。気がそれているのである種自分は平安がある。問題なのは、これら全部は一時的には良くても結局は効果がなくて問題を防ぐどころかさらに問題を引き起こすのです。

そしてあなたのための神様の約束の成就も遅らせることも。


モーセの場合、エジプト人の虐げから一人のイスラエル人を救ったが究極的には彼の方法は効果的ではなかった。

そして彼が助けた人はなお奴隷でした。

結局何も変わっていなくて、自分自身の状況も複雑になりました。それでパロの怒りからエジプトへ逃げました。神の民の指導者ではなく、羊飼いとしてそこで40年間荒野に暮らします。


ヤコブの場合、

父親の祝福を兄から奪うことで状況は良くなりません。

それがかえって兄を自分に敵対させ兄を逃れて荒野に暮らし、ラバンに14年も仕えることになります。


そしてアブラムとサライの状況。この解決法でしばしうまく行っているように思われたが子孫はまだいません。そして彼らの計画では子孫を得るはずでした。でも思いもしなかった複雑なことになります。まずこれまで、2人はアブラムのためか、サライのためなのか、子を授からない理由を知りませんでした。この時点で知る由はなかった。そして正直に言って彼らは知らないほうがよかったと思います。それならともに重荷を負うことが出来るからです。


けれどもハガルがすぐに子を授かって、もはや不思議なことがなくなります。子供が授かれないのはサライが原因だったのです。これは重くのしかかります。このことがわかってあた問題に波及したのでしょう。ハガルを含めた皆にそれが知れたのです。このことでハガルはサライに対して優越を覚えます。イスラエルの未来の母となるサライであったのに。

あなたが成し遂げられなかったことを私は成し遂げた。私のほうが優れているのだ。

そして4節に「彼女は…女主人を見下げるようになった。」とあります。サライが劣っていたかのようにふるまいました。もちろんこれをサライがよく思うはずがありません。

ただでさえその知らせに傷ついていたのに劣ったとみなされて見下げられました。この不安感と傷心で彼女はアブラムに向かって彼を責めます:

創世記

“サライはアブラムに言った。 「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」”


これで、彼らの問題解決のはずの計画のために、夫婦の争いとなります。互いを責めあいます。すべてうまく行くはずがことは余計に複雑になりました。これが私たちの自己治療でも言えます。心配していることには対処せず考えなくていいようにするだけです。

気を紛らわせているもののスイッチを切れば変わらず問題の種は私たちを待っているので永遠に先延ばしにはできません。先延ばしにすればするほど、ことは複雑になっていきます。


例え:

初めて来日した時、初めの何年かは自分にとってショックの連続で日本でミニストリーをすることに平安はない日々でした。心配が頭にいつもあって、心配になる出来事が起こってその日家に帰るとドアを閉め、テレビゲーム愛用のPS2 ダンスダンスレボルーションをずっとしました。運動のためと言いながらいろいろ考えるのが嫌だったのです。

自分の恐れていたことを考えたくなかったです。

ゲームの後は映画をかなり観ました。向き合うことから逃げること、なんでも。映画を見ながら寝て、朝にはその心配事は変わらず存在しました。その日に立ち向かうためベッドから出るのも教会に行くのもおっくうでした。先延ばしにして逃げていなかったらどれだけ効果的にはたらけただろうかと思います。自己流に立ち向かわなければ。 自分で平安を求めて神様の約束を遅らせなかったのなら。神様との歩みでもっと進んでいたはずです。そんな風に時間を無駄にしなければよかったと思います。

でも、どうすればいいのでしょう。失望して、待ちくたびれて。サライは、アブラムはどうしたらよかったのでしょう。

主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。

サライはこの状況をアブラムのせいだと考えます。こう言いました:

創世記

“サライはアブラムに言った。 「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」”

ほとんどの人はもともとサライの考えだったのだしこれは理にかなわないと思うでしょう。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように、ってどういうこと? 考案したのも彼女だったし正しい言い分です。夫の助けでではなく誘い込んだ彼女にも落ち度があります。

結婚して長いと、相手の胸の内がわかってきます。サライは待ちくたびれて、弱った心でこう言ったのです。

アブラムはここでサライの胸の内をわかって、一歩引いてこんな決断はよそうという霊的なリーダーの役割を果たす機会もあったのです。霊的なリーダーは神に祈り彼女を神に近づけようとします。


私たちも失望や待ちくたびれているとき、それらを神にもっていけるのです。神と整理するために。私たちは弱さのためにこのことも忘れます。けれどそのために互いが与えられています。相手を神にまた導くこと。教会の交わりで、ある時点でくたびれ失望してよからぬ考えを持つ人が出てきます。交わりの中、兄弟姉妹はその人のもとにきて神に立ち返らせることが出来ます。ある人の弱さのなかでキリストのからだは強くいられます。


例え:

人の体もそういう機能です。足を怪我すれば、体全体が足をかばって重みがかからないように支えます。反対の足が重みに耐え、手は杖を握って手伝います。体はそのようにできています。


このようにキリストのからだも結婚の関係も機能するものです。一体となり機能します。

アブラムはその機会に妻のためにより良い選択を出来たしそのほうが状況を良く変えたでしょう。けれどもそうせず、別の方法、つまり何も言わないことを選んだ。

サライの弱いときに、アブラムは何も言いませんでした。弱っていた彼女の提案を受け入れました。

アダムがとてもこれに似ていることをしましたよね。


エバが弱いとき、蛇に誘惑を受けたときにアダムは何もしませんでした。何も言わなかった。代わりに妻と共にその実を食べてしまいました。ここで、アブラムはアダムの子孫として同じ道をたどっています。人によろこばれるため、彼女が満足するならと思ったのでしょうか。サライの弱っていたことは彼女の問題、自分とは関係ないということでしょうか。


どうであれ、肝心なのは彼が何も言わなかったことです。何もしなかったことで彼女にとっても痛手となりました。それできっとサライはアブラムに反感をもっているのでしょう。


ここでアブラムがまた機会を得ています。2人の妻の間に立って話し合い、状況を改善する。仲介者、霊的リーダーとして。2人の妻を神の前に祈りで引き寄せることもできました。いさかいから救うこともできたでしょう。でも彼は、またしても何もいわず、何もしませんでした。


“アブラムはサライに答えた。 「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」 サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。”


アブラムは何も言わず、介入せず、終いにハガルがサライから逃げ出します。弱さにある時、私たちにも助ける機会があります。最も低いところにいる人、妻や夫にとどく声となる。キリストにある兄弟姉妹に。神様に向けるために。はたまた何も言わないという選択もあります。でも何もいわず、何もしない選択は思うよりもずっとひどい結果になります。


サライの弱さにアブラムが介入しない決断は結局痛みとなりました。皆がかかわることとなる痛みです。状況はひどいものでした。

このままであれば人生がこんなになりうるという自分たちの失敗の悲しいお話で終わってしまいます。ですが神様をほめたたえます。この状況に介入しました。


主の使いが彼女を見つける

ハガルは女主人サライの怒りから逃げて荒野にきます。ハガルにも同情しますが、彼女に落ち度もあります。サライに高慢にふるまったのは全く彼女の得にはなりませんでした。そして荒野に居て、状況は最悪。多くの人は彼女がエジプトに帰ろうとしたと推測します。過酷な荒野では生き延びられないしエジプトははるか遠いのです。しかも身ごもっていますから大変なことです。ところが主の使いがあらわれて何をしているのか尋ねます。

彼女は逃げている、と言います。


み使いはハガルに、戻るよう促します。あなたは助かる。この状況を私は見ていたのだと。「神がわたしを顧みられた。」見ていただけでなく、あなたの代わりに私がはたらくと。生き延びるだけでなく、あなたは栄え、息子も大きな民となるだろう。

だから安心して女主人のところに戻るのです。ここでハガルは美しい言葉を残します。


創世記

“ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。”

私たちも自分で解決しようとしたり、何も言葉にしなかったりして大変な状況をまねくことがあります。先週、または今週かもしれないし振り返って、防げたのにと思うでしょう。


あの事を神様のもとにもって行ってたなら、こういう風に彼女に声をかけてあげたなら。

振り返ってそんな思いになることがありますね。

けれどもそんな中でも見守っておられる神様がいるのです。聞いておられます。アブラム・サライとハガルを見守った方です。

どんなに最悪な状況になってしまっても、そこから助けてくださいます。


例え:

親に言われてきたことを子にも言うのはおもしろいことですね。

自分で散らかしたのだから自分で片付けなさい、と母がよく言いましたが、今では自分で子供にそう言っています。きれいにしたばかりの床にものをこぼします。しびれを切らして、考えもせずそう言っています。洗濯したての洋服にシミをつくったり。自分では我慢できず、子供に自分でどうにかしなさいと言うんです。神様もきっと自分にはそうだと私たちは思います。


けれども私たちは仕えている方はそうは考えない方なのです、神様を賛美します。

私たちは憐みと恵をくださる神様に仕えています。あなたのしたことだ、さあ一緒に片付けよう。そう言われる神様なのです。

目から涙をぬぐって、頭を上げさせてくださいます。

アブラム・サライ・ハガルになさったように軌道修正させてくださいます。


まとめ

サライは自己流に対処して自分にも悲しみをひき起こしました。アブラムは介入する機会を棒に振って状況を悪化させた。けれども神様はそのひどい状況に介入してくださいました。憐みによって悪くなった出来事でもはたらかれました。私たちひとりひとりにもそうしてくだらないはずがありません。

アーメン





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