Japanese Translation: Genesis 23 (Message: Pastor Robinson / Translation: Yumi Takeuchi)

ホライズンチャペル・世田谷英語礼拝 2020/11/29 「交わりの終わり」 創世記23章 アレックス・ロビンソン

今日はサラの死について学ぼうと思います。 サラは死の床にあって栄光を受け、交わりの中で息 をひきとったのです。アブラハムは彼女との交わり が終わったことを悲しみ、その交わりの素晴しさの 価値を悟るようになったのです。私たちは皆、男も 女も呪いのもとに生きる必要はなく、そこから解放 され、神が私たちに与えてくださったお互いの交わ りを十分に楽しむことができるのです。

聖書朗読:創世記23章 サラはヘブロンで息を引き取った(1~2節) 今日はサラの死の場面から始まります。彼女は 127歳だったとあります。興味深いことに、 聖書の女性の中で亡くなった年齢が記されてい るのはサラだけです。聖書中の他の女性は、い くつで亡くなったかわかりません。サラだけ、 その寿命が明記されているのです。

現代では、女性の年はあまり公表しません。 例話:もちろん常にそうではありません。小さい女 の子は自分の年を誇りにします。尋ねなくても自分 から「私7歳!」と、自慢します。そしてさらに先 の話になり、「来年は8歳よ!」忘れないように、 ちゃんと教えてくれます。 でも、10代、20代となるにつれて、尋ねなければ教 えてくれなくなります。その頃はまだ、年齢を聞い ても、それほど問題ではありません。

尋ねれば答えてくれるでしょう。まだ、自分の 年に誇りを持っていて、「16歳です!」とか 「21歳です!」などと答えます。 しかし、不思議なことに20代から30代になる と、年齢はいきなり微妙な話題になるのです。 アメリカでも日本でも同じで、間違って尋ねて しまっても、決して教えてはくれません。それ は、極秘なのです。

というのは、私たちはみんなどこかで、若さと言 うものが最も重要なものだと信じてしまっている からです。若ければ若いほど、価値があり,年を とると価値がなくなると思ってしまっているので す。しかし、それは聖書的な考えではありませ ん。実は聖書においては全く反対なのです。 白髪は光栄の冠、それは正義の道に見いだされ る。(箴言16:31)

大抵は、白髪を隠そうとします。しかし、聖書は 隠さなくていいと言っているのです。その一本一 本が栄光の印なのです。いままでいろいろと苦労 してきて、神のめぐみによって今や深い理解と知 恵に富むようになっているのです。神の働きの故 に多くのことを経験し、より正しい道へと導かれ てきた証拠なのです。それが、白髪の意味なの に、私たちはそれを隠そうとするのです。

例話:白髪に関するみ言葉を探している時にも、最初 に出てきたのは、死にかけている白髪の話でした。 聖書によると、主と共に歩んでいるのなら、衰えてい くのではなく、より良い者となっていくのです。 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のよ うに主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、 主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはま さに、御霊なる主の働きによるのです。 (第二コリン ト3:18)

このみ言葉のように、私たちは年と共に衰えていくの ではなく、栄光に輝いていくのです。10年、20 年、30年、40年主と共に歩いてきた女性は、少女 に比べると、どんなに栄光に満ちていることでしょ う。私は主にある姉妹方が、栄光に輝くべきものを恥 ずかしく思うことを残念にさえ感じます。また、我々 男性は、このことに関して助けの手を差し伸べるべき だと思うのです。女性たちに、年をとるにつれて、ま すます栄光に満ちてきていることを伝えるのです。

彼女たちが神と歩んでいる年ごとに、その素晴らしさが 減るのではなく、増しているのだと。神が助け手として 与えられたその働きにおいてより素晴らしい者へと変え られていることを。 知恵の言葉や結婚に関するアドバイスが必要な時に、1 6歳の子の所には行かないでしょう。神はすべての人を 用いられるでしょうが、アドバイスを16歳の子に求め はしないでしょう。神の約束に従って人生を過ごしてき た女性に、求めにいくのは当然のように思われます。

ですから、サラの年齢がここで語られているのでしょ う。これは特別な光栄です。この女性は127年生き、神 の約束に従った男性と共に過ごしました。これは栄光 に満ちたことです。そういう人から、多くを学ぶべき なのです。 127歳ということだけではなく、ヘブロンの地で亡く なったとあります。ヘブロンと言うのは「交わり」と 言う意味で、彼女がそこで息を引き取ったのは決して 偶然ではありませんでした。

彼女は交わりの中で亡くなったのですから。夫アブラ ハムとの交わりの中で。彼らは困難、苦闘、試練の中 を共に通りましたが、いつも共にいました。彼女が亡 くなる時も二人は深い交わりの中にいました。 彼女の年以上に、このことが彼女を素晴らしい人にし ていると思います。様々な苦悩の中を通ってきました が、それでも夫と共にいたということです。夫と一つ になっていたのです。アブラハムは必ずしもいい人で はなかったと思います。

あなたたちの夫にも欠点はあることでしょう。で も、王にあなたを差し出してしまうようなことは決 してないと思います。そのようなことがあった後、 その夫と共にいることは容易なことではなかったと 思います。127歳になるまで、そのような人と共 に時を過ごしたサラはどんなにすごいことを成し遂 げたのか、考えてみましょう。この点において、新 約聖書にはサラの性格についての言及があります。

彼女がどれほど特別な人で、どのように年老いるま で夫と過ごすことが出来たのか記されています。 あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけた り、着物を着飾るような外面的なものでなく、むし ろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないもの を持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。 これこそ、神の御前に価値あるものです。むかし神 に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分 を飾って、夫に従ったのです。

たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従 いました。あなたがたも、どんなことをも恐れな いで善を行なえば、サラの子となるのです。 (第1ペテロ3:3~6) これはとても興味深く、難しいみ言葉です。女性 の年と同じで、従順と言うものは今日価値のある ものと思われていないからです。現代の価値観で は、従順は見下されているものです。

夫に従順な女性は弱い存在であり、強く独立しな ければならないと考えられています。夫に逆らう 女性の方が、夫を敬う女性よりも影響力があると いうのです。 例話:日本のテレビのことは良くわかりませんが、 アメリカでは、夫は以前はとても尊敬を持って描 写されていましたが、時がたつにつれてそれが変 化してきて、人気のある番組の中で夫は徐々に馬 鹿にされる哀れな存在になってきています。

そして妻が力を持ち、すべてを知っている偉い存在 になってきています。一番多くの笑いを取る場面 は、妻が夫を馬鹿にする場面です。 これは時代の世相を表していると思います。女性が 集まって皆で笑うのは、夫のことを話す時で、夫を 馬鹿にすることを楽しむのです。誤解しないで欲し いのですが、私は時に本当にどうしようもない男だ と思います。妻が私のことをいい意味で話題にする のはちっとも構いません。

でも、正直言って女性が集まって話す時には、いい 意味での夫の話などするでしょうか。他人の前で夫 を自分よりも下にする方が普通なのではないでしょ うか。 このことは常に女性にとって誘惑なのです。人の中 にある罪によって、呪いの影響を受けているので す。それはアダムとイブにまでさかのぼることが出 来ます。リーダーとしての夫の地位を奪いたいとい う欲望がそこにあるのです。

呪いに関して以前学びました。神は創世記3章でこの ように語りました。 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごも りの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産 まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕う が、彼は、あなたを支配することになる。」(創世記 3:16) 罪がこの世に入った時以来、この戦いが存在している のです。

夫を支配する欲望があるのです。その理由はとても単 純で、怖れです。それは現実的な怖れであり、アダムの 行いにその原因があります。 「私は彼を信頼できない。彼は私の見方ではない。私 や家族を守ってはくれない。責任を取ってはくれな い。だから、自分や子どものことは自分で守らなけれ ばならない。彼は信頼できない。」と思ってしまった のです。これは、本当にアダムの性質でした。蛇がイブ を誘惑していた時、アダムはどこにいたでしょうか。

イブのすぐ横にいたにも関わらず、何もしませんで した。彼女を守ることも、ヘビの嘘から彼女を守ろ うと神の真実の言葉を語りもしませんでした。何一 つしなかったのです。そして神がそのことについて 彼に問い正した時、再び責任を取ることをせず、彼 女を責めたのです。「あなたが私に与えた女が食べ たのです。」と。アダムはイブを裏切ったのです。 その時の心の傷が今も女性の中に刻まれているので す。

「夫を信頼できない。私を裏切るかもしれない。だ から、私は自分で自分を守るしかない。自分が彼を 支配し、彼をあやつり、コントロールし、文句を言 わなければならない。彼に勝手なことをさせないよ うに気を付けなければならない。」と思うのです。 そして、男たちよ。残念なことに時に私たちは何の 力もない者なのです。なぜなら多くの場合、父なる アダムと同じことをしてしまうからです。

家族の責任を取らず、リーダーシップもなく、関わ りたくないと思い、家族を守ったり気にかけたり もしないことがあります。自己中心に落ち込み、 妻を呪へと導こうとする誘惑を見ても、見ぬふり をするのです。 このことはアブラハムの場合にも見ることが出来 ます。時に彼はとても自己中心的な決断をします。 妻のことを気にもせずに、彼女を裏切るのです。 他の男性に2度も彼女を渡してしまうのです。

そういうわけで、サラはその呪いのもとで一生過ご すことは当然できました。つまり、夫を支配しよう とする生き方です。なぜなら、自分のことは自分で 守らなければならないからです。しかしそのような 生き方であれば、年老いるまで夫と深い交わりを持 つことは不可能だったでしょう。憎しみと別離の道 をたどったことでしょう。呪いが続くだけでした。 時にはそういう気持ちになったかもしれませんが、 サラはそういう生き方を選びませんでした。

愛を持って夫に従順する人生を送りました。夫を 「主」と呼び、彼を尊敬する人生でした。日本でも 古い世代の女性は夫のことを同じように「主人」と 呼んでいました。それは尊敬を表す言葉です。夫に 同意できない時でも、または全く尊敬できない時で も、サラは夫を「主」と呼び、尊敬したのです。 皆さんに夫のことを「主」と呼びなさいと言ってい るのではありません。

私の妻は、今まで一度も私のことを「主 人」と呼んだことはありません。聖書がサ ラに栄光を与えた理由は、その尊敬と従順 の思いの故にということです。それで彼女 は、127歳という高齢で、夫との深い交わり の中で召されたのだと思います。

しかし、ここで一つの疑問は「どのようにしてそん なことができるのか?」ということです。 第一ペテロは明記しています。彼女の従順は夫の故 ではなくその信仰の故なのです。ペテロは、彼女は 神に望みを置いていたと記しています。神が彼女を 妻であり母である働きに召し、従順に主に仕えるよ うに召したのです。神がそのように召したのであれ ば、夫に従順することが祝福につながると信じたの です。

私たちが召されている働きにはすべてその目的と意 味があるのです。従順することは彼女と夫の問題以 上に、彼女と神との問題なのです。神が彼女に夫に 従うように求めておられるのなら、それは神にとっ て重要なことです。ペテロの手紙の中で「柔和で穏 やかな霊は神にとって 価値あるもの」であるとあります。信仰をもって神 に従う人には神は栄光と報いを用意しておられるの です。

アブラハムが良い判断をしようとしまいと、サラが 夫に従った結果、彼女は祝福されたことを知ってい ただきたいです。アブラハムが2度も妻を他の男に 差し出した時、それは確かに良い判断ではありませ んでした。しかし、それらの決断に従順に従ったサ ラを神は喜ばれましたか?ーはい。そして神は彼女 を守りました。彼女のために奇跡を起こしました。 彼女のために王の心を動かし、サラを安全に戻した のです。

夫に「ノー」と言ってはいけないと言う意味で しょうか。彼に自分の意見を言ってはいけない と言う意味でしょうか。彼が間違っている時に も指摘してはいけないと言う意味でしょうか。 いいえ。あなたは助け手であり、それらのこと は大事なことです。しかし、それらのことを尊 敬と従順の心をもって信仰によって行うとき、 神はそのことを良きこととしてくださるのです。

例話:以前にも言ったように、私の母が父と結婚し た当時は、父はクリスチャンではありませんでし た。彼は尊敬できるような人ではなかったので、当 時母はとても大変でした。父は母に辛くあたってい たので、母は憎しみを持って生活する当然の権利を 持っていました。彼に反抗し、彼を支配しようとす ることもできたはずです。 確かに彼女には聖霊が働いていて、父はそれを持っ ていませんでした。

彼女は霊を見分けることが出来ましたが、父 は出来ませんでした。彼女は何が最善が知っ ていたのです。彼と別れるしっかりとした理 由さえ持っていました。しかし、もし彼女が それをしていたら、今私はここに立ってはい なかったでしょう。母は祈りとみ言葉の中で コリント人への手紙に出会いました。

また、信者でない夫を持つ女は、夫がいっしょ にいることを承知しているばあいは、離婚して はいけません。 7:14なぜなら、信者でない夫は 妻によってきよめられており、また、信者でな い妻も信者の夫によってきよめられているから です。そうでなかったら、あなたがたの子ども は汚れているわけです。ところが、現にきよい のです。 (Iコリント7:13~14)

彼女はみ言葉に従って、父が別れたくないと言った ので、離婚しないことにしたのです。 そしてまた彼女は先ほど引用した第一ペテロ3章を 見つけました。そして、この尊敬できない父に従う ことを主が求めておられることを知り、その後何年 もの間彼に従順し続けたのです。 神はそれを祝福され、何年も後に、父もクリスチャ ンになり、いつも母の彼に対する尊敬と従順の態度 のことを語ってました。

最後に私の両親は本当に良い交わりを持つよう になったのです。 サラはヘブロンで亡くなりました。夫との交わ りの中で亡くなりました。それは彼女が望みを 主におき、夫に従順することによって神に従っ たからだと思います。彼女は呪いの影響下で亡 くなったのではなく、それから解放され神への 信仰によって自由にされて亡くなったのです。

男たちよ。ここからは聖書は私たちに語りかけてい るのです。アブラハムはその交わりが亡くなってし まったことを悲しみました。 アブラハムは喪に服しました。 話を続けますが、アブラハムはサラの死を心底悲し みました。彼女との交わりを惜しみました。 サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブ ロンで死んだ。アブラハムは来て、サラのために嘆 き、泣いた。(創世記23:2)

興味深いことに、聖書全体で泣くことに関して書 かれているのはこの個所が初めてなのです。 創世記で多くの事柄が起きましたが、ここまで一 度も泣くという行為が記されていないのです。 人が罪に陥った時にも、洪水の時にも、バベルと 塔を神が止められた時にも、ソドムの町が滅ぼさ れた時にも、涙と言うものはありませんでした。 しかし、ここでアブラハムは交わりがなくなった ことを泣いたのです。

男たちよ、聴いてほしい。私たちは多くの物で生 活を満たそうとします。仕事、お金、名声、おも ちゃ、スポーツなど様々なことで時間を費やして います。そして多くの場合、アダムの例になら い、妻や家族をそっちのけでこれらのことに夢中 になりがちです。私自身もそのような者です。 父(アダム)の呪いに従ってしまう誘惑が常にあ るのです。

しかし、知って欲しいことは、アブラハムは 仕事がなくなったことや、手に入らなかった 物に関して嘆いたのではありません。サラと の交わりがなくなったことを嘆きました。そ の交わりこそが本当に大事なものだったので す。後になって彼はそのことを痛いぐらい知ら されます。その交わりこそが一番大切なもので した。

私たちも人生の最後に嘆くことは、多くの時間を割 いて追い求めているもののためではなく、 それらのために無駄にしてしまった時間が無くなっ たことを最も嘆くことでしょう。もっと交わりを大 切にすべきだったと。しかし、現在そのような視点 を持つことは難しいかもしれません。周りのすべて の事柄はとても重要で緊急の事柄のように感じま す。しかしアブラハムは、晩年はとても違った考え を持つようになりました。

これからの話の中でそれがわかります。 彼はヘテ人の所へ行き、お墓を買おうとします。その 時自分のことを何と呼んでいるでしょうか。「私はあ なた方の中に寄留している異国人です。」彼はその場 所が自分の家ではないことを理解しています。「私が 今まで苦労して得てきた土地や食料は、最も重要なも のだと思ってきたけれど、今失ったものに照らしてみ ると、今真実が見えてきた。これらの物をもって生き ることは出来ないのだ。ここは私の家ではない。」

彼はついに正しい見方をすることができるように なったのです。 私たちが見ているものは何一つ残るものはありま せん。今はこの地上を旅しているだけなのです。 ここは私たちの家ではないのです。ですから、妻 や家族を犠牲にしてまで、この世の物に囚われて 過ごすことは愚かなことです。この世の物はそれ ほど価値のあることでありません。

ここで生活していますが、ここが家ではないので す。もっともっと重要なことがあります。交わりが その一つです。家族や妻との交わりです。 それから彼らは、ツォハルの子エフロンを呼びに行 き、アブラハムはその土地の値段を尋ねます。アブ ラハムとツォハルの間の会話は当時の文化的なもの が絡んでいるので、内容がわかりにくいのですが、 このやり取りは当時交渉する時のやり方だったよう です。

まず始めは彼にただでその土地を提供すると言う のが伝統だったようです。しかしこれは本当の提 供ではなく、敬意を払う決まったやり方です。そ の申し出を本気で受け取るわけではないのです。 例話:京都出身の友達がいるのですが、京都には 特別なやり方があるそうです。ここの話に似てい て、礼儀として行うのですがそれを本気で受け 取ってはいけないことがあるそうです。

誰かの家で、お菓子を勧められたら、すぐに手を 出してはいけないのです。3回勧められたら食べ てもいいと言うものです。また、何か食べ物を作 りましょうかと聞いてきたら、それはあなたは長 居しすぎているから、帰った方がいいという意味 だと言うのです。「そろそろ」と言う言葉を使わ ずに、「何か作りましょうか。」というそうで す。つまり、本当の勧めではないということです。

アブラハムの時代も同じようなことがあり、土 地の交渉を始める時の儀式のようなものだった ようです。 次にその土地の所有者がとても高い値段を提示 します。しかし、これも本気に受け止めてはい けないそうです。そこから値切っていくのです。 彼がここで提示した銀400シェケルは、歴史 家によるとあまりにも高い値段だそうです。

恐らく実際の価値の4倍くらいであり、100シェ ケル位を求めていたものと考えられます。 しかし、アブラハムはこの提示をそのまま受け取 り、値切らないのです。お金のことは彼にとってど うでもよいことになっていました。妻との死別のこ とを思うとお金はもうそれほど大切なものではなく なっていたのです。 私たちは何度、経済のことで妻や夫と争い、ぶつ かってきたことでしょうか。

お金のことでどれだけ言い争ってきたでしょうか。 予算や決算のことで。もちろんお金は大事です。大 事ではないと言っているのではありません。話し合 う必要はあるし、祈って決めなければならないこと です。現代の経済状況にあってはなお一層大事なこ とです。しかし、それによって結婚生活にどれだけ ヒビを入れてしまっているでしょうか。妻や夫のこ とよりもお金を優先してしまっていないでしょう か。

アブラハムから次のことを学ぶことが出来ます。 お金はそんなに価値はないということ。この時点 で彼は私たちに大事なことを教えてくれます。 もうこれからは、お金のようなことについて口喧 嘩をするのはやめよう。ここに400シェケルあ る。私が失ったものに比べたらこれくらい何でも ない。やっとわかった。もっと早くわかっていた らなあ。

しかし、私達男性はアダムの呪いに従って歩む必要 はないのです。男と女のサイクルに囚われて生きる 必要はないのです。なぜなら私たちには新しいアダ ム、二人目のアダムが与えられているのです。最初 のアダムによって呪いがもたらされましたが、二人 目のアダムはその呪いからの解放をもたらしまし た。そのアダムの名前はイエス・キリストです。彼 はこの世の束縛から私たちを解放し、これらのこ とから自由にしてくださったのです。

そして、最初のアダムが決して行えなかった愛の行 いを、聖霊の力によって行えるようにしてくださっ たのです。愛の力を与えてくださっただけでなく、 イエスは従うべき模範を私たちに見せてくださいま した。彼ご自身と、彼の教会への愛です。そしてさ らに高い召しを与えられました。それは、キリスト が教会を愛したように妻を愛するということです。 この戒めは私たちを責める目的で与えられているの ではなく、より充実した人生を歩むために与えられ ているのです。

本当に大切なものを楽しむためにです。それこそ が交わりです。神との交わり。教会との交わり。 家族との交わり。妻との交わり。すべてのことよ り解放された自由な交わりなのです。 結論:ですから、交わりを楽しみましょう。怖れ のために交わりから遠ざかることのないようにし ましょう。何物にも邪魔されないようにしましょ う。神があなたに与えられた交わりをもっと楽し みましょう。

サラは人生の最後の最後まで、交わりを楽 しみました。アブラハムはその交わりを最 も惜しみました。交わりこそが、保ち続け る最大の努力をする価値のあるものなので す。 アーメン




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