Japanese Translation: Genesis 24 (Message: Pastor Robinson/ Translation: Ronald Akatwijuka)

創世記 24

僕のこころ

はじめ: 新年からも創世記の学びを続けたいと思っています。ここで、新年ということから、創世記の中でトランジーションが見られる箇所から学ぶのはある意味相応しいです。 しばらくの間は、アブラハムの人生に注目して学んできました。しかし、今日からの学びは、約束の息子のイサクと次世代 に移り変わります。しかし、アブラハムに関する学びが終える前に、彼に最後の宿題があり、それは、息子のイサクに奥さんを見つけることです。今日の学びでは、3人の主人公に着目します、つまりアブラハム、エリエザー、とレベッカです。この人たちそれぞれの話から、「僕のこころ」についていくつかの例が見られ、そこから私たち何を学べるかを見ます。僕のこころというのは、他人の最善を求めること。主人の仕事を最優先にすること。そして、喜んで仕えること。これら特色を見ます。


創世記24章を読む


僕のこころは他人の最善を求める: アブラハム (1-8節)

アブラハムから始まるが、ここからはアブラハムは中心ではありません。この箇所からは正にトランジーションです。アブラハムと、彼の信仰の歩みについてたくさん見てきました。 神様が彼に対して約束と忠実を示したこと。しかし、ここからは、次世代に移ります。アブラハムもこのことをよくわかっています。このトランジーションで、将来に向けて彼は息子の準備をしています。ここからアブラハムは、息子のために奥さんを見つけます。

でも質問は、どこから奥さんを見つけるのでしょうか?この時代では、息子に奥さんを見つけることは、息子にとってよりも自分にとっても有利だったときもありました。多くの場合結婚は、政治的な意味合いが強かったです。アライアンスや条約を結ぶ意味合いがありました。もし私の家族が別の部族等に結婚したら、かれらとは平和に暮らすことが出来ます。自分の娘が結婚している部族には戦いに行かないですよね。ですので、安全保障もあるが、自分が攻撃されたら結婚した部族部族から力を貸してもらえるメリットもありました。ですので、結婚というのは、自分の地位、安全を守るための大きな機会でした。


もしアブラハムも、それを望んでいたら、自分の安全および財産保証の都合に結婚相手を見つけることができた訳です。これは、年を取るほど一層重要になってきます。


例:初めて来日したときに、町田教会建物の屋上に行くことが大好きでした。初めてチームと一緒に来たときは、毎晩そこに遊びに行きました。そして、私が一人で2回目に来たときは、毎回行きました。お客が来たときは、そこに連れて行きました。そこからの景色はとても綺麗です。教会のホームページ、画面トップあたりにある写真も町田教会建物の屋上から撮られています。屋上には、転落防止の策もありますが、絶好の景色を見たい場合は、エレベーターシャフトが最も高いので、その上に昇るのが一番です。エレベーターシャフトの上にはそう言った策もなく、実際はそこのひと角から見ると、4階を経て地面に直結しています。20代の独身男の子の私には、それを物とせず、緊張さえしませんでした。最近はホームページに載せる屋上からの写真を撮るために久しぶりに昇りました。33歳になった私に妻と子供4人がいるので、「安全」というのを一番に思っていました。そこにいる間はずっと緊張していました。


年をとるほど、安全第一の意識が高まります。アブラハムのような年頃の人にとっては、自分の安全を高める行動を考えると思うでしょう。

安全保障のみならず、結婚は地位と直接関係していました。もし地位の高い家族に結婚したら、自分の地位もあがることになっていました。アブラハムは王様とやり取りをしていたことを忘れないで下さい。21章では、アビメレキ王が条約を求めてアブラハムのところに来ました。「神様はあなたとともにおられるので、私たちに平和にして下さい」。王様との関係はこういうものだったので、もしアブラハムがそれを望んでいたら、息子のために王女との契約のアレンジも出来たはずです。王様の家族に結婚することは、当然地位の高い名誉につながったはずです。


しかし、アブラハムはそれも求めません。

息子イサクの結婚を自分の安全保障の機会にしませんでした。居住地から大きく離れた地へ、息子のために嫁を見つけに送ります。アブラハムにはメリットのない結婚関係となります。もしトラブルに巻き込まれたとしたら、助ける相手もいない道に僕を送ります。 この機会を自分の地位を上げるためにも活用しません。彼らを送る地は、今暮らしている地に何の関係もありません。仮にその地で有名な家族だったとしても、今暮らしている地ではそれは知られていません。


というのは、この結婚はアブラハムのためのものではないことを、彼がわかっていました。

この箇所を今週にもう一度読んで学んでいた時に、主人公のアブラハム、エリエザーとレベッカはそれぞれ僕の心得を持っていたことをわかりました。3人とも、僕の心得について私たちにメッセージを残しています。


僕のこころは他人の最善を求めます

アブラハムは自分のメリットを求めていませんでした。もし求めていたら、違う行動をとったでしょう。彼は息子のイサクのことを考えていました。そう考えて、この地から息子に嫁を探そうとしませんでした。 自分の安全や地位を意識せず、自分にとってよりも、息子にとってのベストチョイスを選びました。


世の中はとても紛らわしいです。世の中は、自分のために物事を求めるのが最も幸せを見つけると教えていますが、これは嘘だと思います。むしろ、自己中心に動いているほど惨めです。というのは、私たちはそのために造られた訳でなく、仕えるために造られたのです。それ以下だと、満足することはできません。


「マタイ 20:25-28」 25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。 26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。 28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。


私たちの主は輪達したちのためにそうされたのです。イエス様はご自身の最善を求めていませんでした。イエスに撮って最も都合の良かったのは、天の力と栄光に残って地上に降りて来ないことでした。しかし、私たちにとってはそれは最善ではなかったです。イエス様はご自身の都合を選ばず、天の力と栄光をおいて、人間として苦しんで十字架で死ぬために世に来ました。なぜ?それは私たちのために最善だったからです。私たちもその道へ呼んでおられます。私たちも、目的を見つけるなら他人のために行動するように呼びかけられています。 他人のために行動しているほど、私たちは造られた目的を達成し、満たされます。

しかし、アブラハムの場合と同じく、他人にとっての最善は自分にとっては光栄でないことがあります。


例:私はおむつを使う小さな娘二人がいますが、二人にとって最善なのは、定期的にオムツ替えすることです。おむつ交換には何も光栄なことはありません。エクスプロージョンした時は背中まで綺麗にしないといけません。綺麗な仕事ではないのですが、子供n為に必要な訳です。


私たちの周りにいる他人のために何かをすることも必ずしも光栄ではないことが多いです。その実に、人間は不完全ですから、殆どの場合は複雑です。しかし、複雑だからと言って、それが最も正しくない訳ではありません。

そして、アブラハムの場合と同じく、他人の最善が必ずしも自分にとって最も安全とは限りません。多くの場合は自分のことだけ気にして他人のことは一切関わらないことが最も安全です。しかし、愛をもって真理を話すことが、その人の気分が落ちるにしても最善なこともあります。


例:日本語を学ぶことに難しさを感じてきました。これは、間違って言葉を正しく使っていない時に誰もが正してくれなかったのも一つのファクターです。周りから私の気分を悪くさせたくないから、間違って使っていた表現に指摘して頂けず、数年経ってから気づいたというケースも少なくありません。間違って言った表現について指摘された時に恥ずかしいですか?勿論、人間ですから。しかし、恥ずかしくても、この時点に訂正できる方が後々気づくよりは良いのです。


それが、私に撮って最善です。自分にとって都合が良くないのですが、他人にとって最善です。

アブラハムは僕の心得をもっていたので、息子のためにベストを選んだのです。私たちも同じような心を持てるように。


僕のこころは主人の仕事を最優先にする:エリエザー (9-14節, 32-56節)

ここらはアブラハムの僕に移ります。聖書は、その僕の名前 を言わないのですが、僕の中で最年長で、アブラハムのすべてを管理する責任があったと記載されています。このことから、僕は第15章に記載されているエリエザーだった可能性が高いです。この僕についてアブラハムは次のように言っていました、「私に子供もいないので死んだらすべての財産は僕のエリエザーに継がれる」。責任が最も高いこの僕を、アブラハムが息子に嫁を見つけに送りました。


最初から見れるのは、エリエザーは主人の仕事に注目していたことです。

それは、彼の祈りに見られます。出掛ける前に、彼はイサクのための嫁を見つける成功を祈るのですが、その祈りに主人の計画が成功することを切に願います。


「創世記 24:12, 14」 12彼は祈りました。「私の主人アブラハムの神様、どうぞご主人様に恵みをお与えください。また、私がこの旅の目的を果たせますよう、お助けください。 14そこで、こうしていただけないでしょうか。娘たちに水を下さいと頼むつもりですが、その時もし、『ええ、どうぞ。らくだにも飲ませましょう』と言ってくれたら、その娘さんこそイサク様の妻となるべき娘だ、ということにしてください。そうすれば、主人アブラハムへの神様のお恵みを知ることができます。」


自分の道の成功も願っているのですが、その目的は自分が達成した時の成功ではなく、その主人に遣わされた目的が達成することを中心に祈っています。そこから的を外さないのです。主人の仕事をしています。


神様が彼にレベッカを送ったときに、彼は急いでレベッカの家に行きます。そこに着いたときに、彼らはエリエザーに食事をもって来ました。長い旅の後だったので、暖かい食事もとてもおいしきかったと思いますが、目の前に食事があっても彼は食べる前に仕事をしました。


「創世記 24:33」 33やがて夕食の時間になりました。いよいよ話を切り出す時です。老召使は言いました。「お食事を頂く前に、ぜひともお聞き願いたいことがあります。どういうわけで私がここにまいったか、その用向きをお話ししなければなりません。」


彼の頭の中には、これが一番です。主人の仕事です。食事も含めてその他はすべてその後ろに並びます。邪魔されたくないのです。主人の仕事で精一杯です。

そして、ラバンがレベッカを嫁に行くことを許した時、エリエザーに対して10日間は泊まって下さいと尋ねました。エリエザーは、主人から守らなければならないスケジュールが与えられた訳ではなかったのです。嫁を見つけることは時間がかかることもあります。10日間泊まったにしても、かなり早かったです。しかも、当時のおもてなしから、泊まっていたら、良い食事を与えられるなど、立派なサービスをしてもらえたはずです。すべての費用がカバーされる10日間の休み を頂いたイメージです。

しかしエリエザーはこれらにも興味ありません。


「創世記 24:56 」しもべは彼らに言った、「主はわたしの道にさいわいを与えられましたから、わたしを引きとめずに、主人のもとに帰らせてください」。

エリエザーは、如何なる状況においても、主人の仕事を最優先にしていました。その的から目をそらすことはしませんでした。

これは本当に僕のこころです。このことは私達が学ぶべき二つ目の特色です。

そして、イエス様もこの心得を教えました。


「ヨハネ 6:38 」わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。


「ルカ 2:49 」 するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」

イエス様のこころはこう言うものだったのですが、それ以上、天の父に使えることがイエス様の支となっていました。


水をくみに来た女に、イエス様が福音を伝える個所では、弟子たちは食べ物を買いに町に出掛けていました。その女性は信じたのですが、イエス様は弟子に対してこう言いました。


「ヨハネ 4:30-34」30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。31その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、 32イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。 33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 34イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。


イエス様は私たちに生き方の模範を示しています。私達も僕として、満たされるためには、私たちを送られた神様のご意志を行うことが食料にならなければいけません。不満を抱きながらここにいれば、何かが主のご計画から目を離しているからです。私達の食べ物となる神さまの意志を行うことが出来なくなっているから空腹です。

私たちを邪魔してしまう要因はたくさんあると思います。緊急性を感じさせることも多いでしょう。その影響で悪い状況に陥ってしまい、本来やるべきことができないことが多いです。


例:私にはこの弱さがあります。床に汚れを見つけた時に、すぐ掃除機を持ってきます。掃除機を取りに行ったのですが、キッチンに洗っていない食器があることに気付かれます。食器洗いを始めたのですが、洗剤がなくなっています。洗剤を買いに出掛けようとしたら、ドアがおかしな音をしていることに気づきます。ドアに油をぬって直したのでほっとしましたが、床がまだ汚れています….


私たちも多くのことに追い込まれて前に進めなくなったと感じて、主の仕事を忘れてしまいます。毎日やっていることが多いのですが、満たされないまま日々を過ごしてしまいます。

今は一歩ひいて、主の仕事を振り返る機会かも知れません。神様のご意志を忘れてしまったかも知れません。私たちは世を救うように切迫を感じることもありますが、しかし、それは私たちの仕事ではなく、イエス様の仕事です。 あなたの仕事はこうです。


「1テサロニカ 5:16-18 」16 いつも喜んでいなさい。5:17 絶えず祈りなさい。

5:18すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

そうしていたら、自然に次のようになります。


「使徒 1:8」…そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

多くのこと日々切迫されるようになっていても、主のご計画を原点にしなければいけません。そうすれば、あなたに必要な食べ物を見つけます。エリエザーと同じように、イエス様と同じように。


僕のこころは喜んで仕える:レベッカ (15-31節, 57-61節)


この箇所は」アブラハムとエリエザーについてのみならず、レベッカの心得も示されています。


エリエザーがイサクのために見つけたいと祈った特徴は興味深いです。嫁を探しに行ったときに、何が最も重要なポイントとなるのですか?

綺麗かどうかですか?「もしこれまで見た中で最も美しかったら、その女性は神さまが送られたことがわかります」。聖書では、レベッカがとても美しいと記録していますが、美しさそのものはイサクに適しているとされていません。エリエザーの祈りも美しさに関するものではありません。


料理が得意だったら?「料理が得意な何らかの印を与えてください」と祈るかも知れませんが、エリエザーの祈りはそのようなものでもなかったです。

賢い人だったら?「神様よ、賢い女性を与えて下さい」裕福であることを重視しますか?


「高級な衣類をしていて欲しい」と祈るでしょうが、エリエザーの祈りはこうでもなかったです。


これら全て、エリエザーは求めず、彼が祈ったのは次のようなものでした。

「創世記 24:14」 娘に向かって『お願いです、あなたの水がめを傾けてわたしに飲ませてください』と言い、娘が答えて、『お飲みください。あなたのらくだにも飲ませましょう』と言ったなら、 その者こそ、あなたがしもべイサクのために定められた者ということにしてください。わたしはこれによって、あなたがわたしの主人に恵みを施されることを知りましょう」。


美しさよりも、賢さよりも、特技よりも、富よりも。彼女を格別付けるのは僕の心得です。もっと具体に言えば、喜んで仕えるこころです。

これが私たちが今日学ぶ僕に必要な三つ目の性質です。僕のこころは、喜んで仕えます。

僕のこころは仕えたい。レベッカはこの心得をもっていたので識別されたのです。この外国人に仕えたいだけでなく、彼の動物にもケアをしたことです。


エリエザーが出掛けた時に、ラクダ10頭を持って行きました。1頭のラクダは75リトルくらいの水を飲むと考えると、これは1時間くらいの仕事になるかも知れません。ここで重要なことに、彼女の言葉だけで信じて終えることをしませんでした。20節では、エリエザーは彼女がオファーしたとおり動物に水を与えさせて、その作業が終わった後に神様に感謝して祈りました。彼女は仕えるこころもあったし、実際に喜んで仕えたのです。 そして、ラバンがエリエザーに十日間ほど泊まって下さいと尋ねた時に、エリエザーは断りましたが、最後はレベッカの答えによってこれがきまることになっていました。ラバンはレベッカを呼びました。


「創世記 24:58」 彼らはリベカを呼んで言った、「あなたはこの人と一緒に行きますか」。彼女は言った、「行きます」。

彼女は喜んで行きたいのです。それは、僕のこころです。 「喜んで、私が手伝います」と言うこころです。もし誰からか僕のように扱いをされた時に、それを受け入れることです。

本当に僕のこころを持っているかどうかは、他人からそのように扱いされた時にわかります。


例: 協会の中のトイレについて、綺麗に使用できるためにどれほど考えが入るかは信じられないでしょう。 スタッフがどのようにトイレを綺麗に掃除すれば良いかは大きく議論されてきました。スタッフは毎回トイレを使った時に、使用前より綺麗な状態にするように取組んでいます。自分の前にスタッフがトイレを使ったかどうかの印は、トイレットペーパーが三角形に折られているかどうかです。

最初はこれについて抵抗を感じました。

しかしトイレ以外に他に、重要な話があるのでは?喜んで仕えるこころがなければ、抵抗を感じるでしょう。私は、この抵抗を感じた時には、自分のこころの状態を示されました。と言うのは、僕のこころは単に喜んで仕えて、このような弱さを認めた時に悔ひ改めて成長することです。


そして、これについても、イエス様が模範を示しています。イエス様が来られた時に、神さまご自身だったのに、どんな作業でもへりくだってされました。 貧しい家庭で育って、大工の仕事をして、弟子たちの足元を洗い、そして何よりも、十字架で殺されることの恥まで、イエス様は全て受け入れました。イエス様は喜んで仕えて、そして私たちも同じように行動するように求めておられます。


特技よりも、美しさよりも、賢さよりも、神様は喜んで従う僕を求めておられます。どれだけ有能な人であっても、美しく、賢く、裕福な人であっても、喜んで従うこころがなければ、神様の前ではこれら全てはむなしいことになります。その反面に、喜んで従うなら、特別な才能等がなくても神様があなたを利用することができます。

神様がその地の女性からレベッカを選んで、世に約束された家系の中心に持ってきたと同じように、あなたも呼びかけます。


終わりに:


アブラハムから、僕のこころは他人の最善を求めることを学びました。私たちも周囲にいる人の最善を求めて、私たちに安全や光栄の都合よりも、他人の最善を選ぶことができるように。


エリエザーからは、僕はその主人の仕事を第一優先にすることを学びました。日々の生活にある邪魔物に目を向け図に、主のご意志に注目して行動して満たされるように。

レベッカからは喜んで仕えることを学びました。若干抵抗を感じることもありますが、そう言う時に、悔い改めて喜んで従うことに成長できるように。


アーメン




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