Japanese Translation: Genesis 26 (Message: Pastor Robinson/ Translation: Akiko Takeda)

ホライズンチャペル世田谷 英語礼拝

2021/1/24

アレックス ロビンソン


創世記26章


イサクの祝福


今日も創世記の学びを、イサクの人生に焦点を当てて続けましょう。エサウとヤコブの誕生が25章で起こります、その箇所はまだお話ししていませんが一旦置いておき来週詳しく見てみましょう。今回はイサクに注目します。読んでみると、イサクは明らかに祝福された人でした。前回神様に祝福されたことを見ましたがこの章ではさらに明確に祝福されます。彼の目の前で幾度も道(扉)が閉ざされても祝福が彼のもとを去ることがないということを見ていきます。イサクは祝福を受け、そのことを理解して恵みが彼のもとを離れなかったので恐れることなく先に進み続けることができました。

百倍の収穫を得る


ではイサクについて、神様が彼の父アブラハムに与えたように約束を与えられたところから見てみましょう。


創世記 26章2~5節

"主はイサクに現れて言われた。「エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。 あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす。 そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」"


これがその祝福でしたね。実際に彼に主が与えられた祝福です。私の約束を受ける者、あなたの父のように私の祝福のうつわとなり、あなたを通して国々が祝福を受けるようになる。

これはのちにイエス様がこの血筋に生まれることを指しています。父親の受けたような霊的な祝福を受けました。

さてイサクの父は子孫が祝福として与えられました。約束の子をいただくということがアブラハムが神様の霊的な祝福を受ける、その契約のしるしでした。のちにサラから約束の子が生まれてその血筋が絶えることがない・・。このようにアブラハムは子孫をとおして神様の霊的な祝福を受けたことが明らかです。


イサクも同様の祝福を受けています。その約束は彼に与えられたものです。ですが彼に対して主が彼とともにいて、彼を祝福する、そして彼の父アブラハムに誓った誓いを果たす、と言うのは父親の受けた約束と異なるところでした。確かにイサクは妻のために祈り子を授かりました。でもそれは一つの出来事にすぎません。

この章を通して、一貫しているテーマはイサクの約束のあらわれはこの世の繁栄ということです。どんな状況に置かれてもイサクは裕福で栄えました。どこに行っても成功します。何か植えたならばその百倍をも収穫し、どこで井戸を掘っても水を得ます。これはただ事ではありません。


例:

私の母協会カルバリーチャペルソノラはアフリカの宣教を活発にしています。ケニアのウガタロンガイと言うところに姉妹教会があります。私の初めての宣教旅行先もケニアでした。実はこのコロナの状況の最中でも神様が宣教チームを送る道を開いてくださり現地にチームが行っています。どうか現地の人たちにイエス様のことを分かち合っているのでお祈りください。またケニアのほかの場所にもつながりが出来ています。年明けにサムブルと言う北部の土地でわずか9フィート(3メートル弱)掘っただけでそのかなり乾いた土地で水が出たそうで、その奇跡を喜んでいるという知らせがありました。3メートルに満たない深さを掘って、清潔な水をたっぷりひけるとことは彼らの住む土地では奇跡そのものです。

イサクはそのまま進みます。どこに行こうと、水が得られて次々に井戸を掘ります。神様が彼と共におられることがこの世の繁栄、成功と言う形で示されます。


一部の人はこれを健康と富の概念にあてはめ、神が共におられれば人は裕福になる、また健康でいられる。もし何か病気にかかったり貧しくなったら何かその人に問題がある。おそらく信仰が弱いのだ、何か神の前に罪を抱えている・・など。


ヨブ記でヨブの友達がこのように彼を責めたのを覚えてますか。

富と家族を失って病にかかります。何章にもわたって友人は何をしたのか、何かしたのでないなら神様が健康や富をあなたから取り去らないはずだ、と言いました。でも結末は、神様はその友人たちがそんなヨブへの言葉を赦していただけるよう、ヨブ自身がとりなしをするようにと言うのです。


困難を通して正されることはある、それは私の経験からも信じられます。

けれども同時にヨブの場合は違いました。私たちの人生の困難がかならず信仰の危機であるとも言えません。


これを通して私が学んだことは、神が共におられることに何かしるし(証拠)があるということです。御霊の実がみられます。神が共にいてくださると愛が増し加えられます。平安や忍耐とほかの実も神様がおられるしるしです。

一方、それぞれの人に見られるしるしもあると信じます。いろいろ異なる霊的賜物をいただくように神様が共におられることがそれぞれに特有な祝福として現れることがあるでしょう。


アブラハムには、サラの胎がひらかれイサクを授かったことがそのあらわれでした。

イサクやヨセフのように、どこに行っても、どんな逆境でも成功をいただくというあらわれもあります。

ルツのようにいつも必要な場所に居合わせるという風に神様が共におられることが見てとれる場合もあります。

どんな状況に置かれても人からの好意を得るエステルのような例もあります。


このように神様がその人にどんな計画をお持ちで何が必要かによって神様の祝福が人それぞれに異なる形で現れるのだと信じます。

平野牧師が良い例です。全然病気をしない方でこれまで一日も病気になったことがありません。私が15歳の時から先生の事を知っていますから18年間です。


先生ご自身もそれが神様からの祝福だと信じてるそうです。病気をしないということが霊的な祝福の物理的なあらわれ、ということです。

また先生はそれに目的があることを信じて、休みを取らずに他者に宣教、教えを続けて祝福をすることが出来るのですね。


一方で私の別のクリスチャンの友達は良く病気をします。体の弱い人ですが他者の癒しを祈って何度もその人が癒されたことがありました。同じ約束にあずかって、それぞれが異なる形にあらわれるのです。

またお金をあまり持っていないクライアントの友人もいます。彼らは勤勉で何か原因があるのではありません。でも本当に驚くような信仰の賜物の持ち主です。自分や多くの人の欠乏で、神が供えられることを信頼しているその信仰をみました。

イサクのように何をしてもうまく行って成功しているクリスチャンもいます。けれどそういう人も捧げものの賜物を受けていることが多いです。神様から祝福を受け、他社の経済面の必要を支えるはたらきに用いられるよう捧げます。


神様が皆さんと共におられることは必ずあらわれがあります。それが見えないことはあり得ません。けれど神様が皆さんをどう用いたいと思われるかによって異なるあらわれがあるのだと信じています。


これもイサクに言えることではないでしょうか。神様は特別にイサクの役割と必要を用意していました。


イサクにはのちに自分はカナンの民とかかわることになるとわかっていました。たとえ自分の父以上に対立することになってもです。民には神が彼の父と共におられたことは分かっていましたが神様はイサクとも共におられる ことを明らかにしたのです。さもなければ約束の血筋が危険にさらされます。民がイサクを打ち負かして家族とともにいのちを奪ってしまうかもしれません。

そこで神様は知恵をもちいて神を求めないカナンの民にもよくわかる形の世的な成功と富でイサクを祝福したのです。

知識のある学者でなくてもイサクが祝福されていることはわかりました。わかりやすいあらわれだったためです。

これはこの状況に必要なことでした。必要に応じて神様がそのようにご臨在をしめされました。困難になっていくのは、私たちの人生で神様が祝福してくださっているそのあらわれをほかの人と比べる場合です。それは落胆を招くのです。


例:私が初めて沖縄に行ったとき、すでに日本にきて3年たっていました。それと神様も実に祝福してくださって結構日本語の会話が出来る状態になっていました。率直にそこまですごくはなかったですが、発音も結構よく日本の人と簡単な会話をするだけの語彙もありました。日本語を話さない友達からはすごいと言われました。

沖縄ではアメリカから来て日の浅い仲間に出会いました。特に初めの2学期間は素晴らしい人に出会いました。

ある男の子は人を励ますのがとてもうまかったです。太陽が出てきたような感じのする人で「もう大丈夫だ、全部うまく行きそう」と思えました。仲間とは彼がプーさん的存在だと言っていたくらいでいろいろ悩んでいてもやってくれば助けてくれました。自分より少し年上の彼を私は尊敬していました。

ところがある晩、ドアの外でたまたま先生と彼が話しているのが聞こえました。私のために落ち込んでいると。いろんな人と日本語で話そうとするけれどアレックスは容易に話している、と葛藤してガッカリしていたのです。全然信じられないことでした。彼は周りを励ましてくれる素質で本当に祝福されていることが明白だったけれど、私が異なる方法で祝福されていたことで彼はガッカリしていました。

他のクリスチャンと自分を比べると、まさにこのようにこうなっていきます。そのため、パウロも初期の教会にこのような心配をしないよう書き送りました。私たちは皆ひとつのからだの部分なのだから、あなたが鼻ならば目と自分を比べないこと。もし耳ならば手と自分は比べないこと。

このことを理解しなければなりません。私たちはみな約束にあずかっています。神様は私たちすべてと共におられます。そして、神様はそれぞれを異なった方法に用いられるのでその事実は異なる形であらわれます。でも約束のあらわれは探し求めて大切にするならかならずみえてきます。

当時の状況のためにイサクは人々に容易にわかるように、成功をもって祝福されました。これはイサクと周りの人だけでなく、私たちのためでもありました。状況にかかわらず、祝福されたことは私たちにもよくわかります。祝福されたので彼は道が閉ざされても次へ進めました。

イサクはそこを去った


イサクが祝福されたことを見てきました。神様がよくわかる形で共におられました。けれど皆さんも祝福された人なのに目の前の道(扉)がよく閉ざされる人だと気づきますか?


イサクの父が経験したようにその土地で飢饉がありました。アブラハムは自身の安全を求めてエジプトへ行きます。イサクはそのようにする道はありませんでした。神様がはっきりとそこに行くなと言われます。イサクはアブラハムのとった行動をとれません。そして彼は主のみ言葉のためにカナンにとどまります。

さて、飢饉がおそっても奇跡的な種のはたらきでイサクと共に神様がおられることがしめされました。成功しました。彼は栄えて百倍もの収穫を得ます。またそれがその土地のペリシテ人の嫉妬を招きます。 あまりに栄えたのでその王はイサクに立ち去ってくれと頼みます:


創世記 26章16節"

アビメレクはイサクに言った。「さあ、われわれのところから出て行ってほしい。われわれより、はるかに強くなったから。」"

ここで、この王はこの人はなにか特別で神が彼と共におられる、と悟ったのがわかります。そのためにきっとイサクを殺さなかったのでしょう。はるかに自分たちより強いと言っています。

神の祝福は神から言われたことを実行することです。

ですがそのあとまた道が閉ざされることがあります。その土地に住み続けられず、出ていかなければならなくなりました。


イサクは次の土地に向かいます。ゲラルと言うところへ行って井戸を掘ると水が出ました。この湧き水を彼に与えた神様は共におられ祝福されたことがわかります。そこでまた羊飼いたちがそのイサクの堀った井戸なのにそれは自分たちのものだと言い出しイサクを困らせます。また一つ道が閉ざされます。


それでイサクはなおも次の場所へ移ります。そこでも、また主が彼を祝福されますが問題に出くわし、追いやられます。また一つ道が閉ざされます。

私たちには神様が共におられるのなら何も邪魔しないという思い込みがあると思います。危機に出くわしたり、道が閉ざされてしまうと何か誤ったのではないか。神様が自分と共におられないのか。何か神様からの懲らしめかもしれない。教訓があるのだろうか。もしかしたら信仰が弱いために神様との関係を正さないと道が開かれないのかも。

実際にこんなこともあります。でも私たちにはまだ準備が出来ていないので、準備出来るまである道を神様が閉ざされるときがあると思います。


神様がイサクと共におられたことを実に明確にしてくださっていることは感謝なことです。


なぜならそれ以外にも道が閉ざされる理由があり得るし、

もしそのことがわかりにくかったら私たちは読んでいてイサクの神様との関係に問題があったのか彼が神様から遠く離れていて心の内で神様に反抗したために次々と道が閉ざされたのかと思ってしまうかもしれません。


ですが、明らかにそんなことはありませんね。

イサクは恐れから、信仰で失敗して父親とおなじあの「あれは私の妹です」のウソをはたらいたにも拘わらず、神が共におられたのは明らかでした。どこに行っても、たとえ道が閉ざされても神様が明らかに彼と共におられました。


ただ単に信仰の問題や懲らしめとして道が閉ざされるのではなく、その先に私たちが進むべきでないので閉ざされることがあります。神様がまた別の計画をされて私たちに別の行き先を用意されていることがあります。


例:

経験者は語ります。私自身これまで多くの道が閉ざされてきたからです。


日本にやってきてから神様がミニストリーを祝福してくださって英語のアウトリーチが順調でした。けれど突然扉が閉ざされました。沖縄に行くように神様から促されました。そして平野先生も同じことを伝えてきて、このまま教会に留まると言う余地はありませんでした。ほかの場所で学びに出るように。バイブルカレッジを終えてホライズンに戻ってきて、教会では英語のプリスクールの計画を立て始めました。カリキュラムをつくって見学に行ったりして何か月も準備しました。そして開校すると生徒が全然来ないのです。その道が閉ざされました。

また、新しく土曜のバイリンガル礼拝を初めて毎週集って交わりも素晴らしかったのですが、また突然、礼拝を終えなくてはなりませんでした。別の教会から同じ時間に合同礼拝の要望があったのです。


何度も道が閉ざされた身としてそれは本当に悔しい挫折感です。どうにかして成功させたくなります。実際そう思いました。でも毎回自分のなかで何か準備が足りなくて道が閉ざされていたのです。 当時の自分にはプレスクールを背負う準備で出来てなかったと思います。


祝福のただなかでも神様が扉を閉めることもよくあります。神様が共にいてくださらなかったのではなく、私たちのための新しい行き先と仕事の計画です。

他にも神がパウロと共におられて異邦人の間で福音を宣べ伝えていました。明らかに神様が共におられてパウロを祝福されていましたが、アジアに向かおうとしたらその道が幾度も閉ざされます:


使徒の働き 16章6~7節

それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。 こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。"


これは、パウロは神様が他の場所に彼を送ろうと願っていたのです。マケドニア人が助けに来てほしいともとめる幻をみました。


道が閉ざされるときは必ずしも私たちが神様から離れている信仰の危機だとは限りません。神様が共におられて別の場所に連れて行こうとしているだけなのかもしれません。

心配しなくていいんです。神様は次に導かれる場所で、ここでしておられるように祝福してくださいます。


きっとイサクはそれを理解していたと思います。なぜかと言うと彼が閉ざされた道に対して格闘しないからです。本当に興味深い点ですね。


私たちが何かを植えて、植えた百倍の収穫を得るならきっと簡単にその畑を手放しませんね。絶対に自分のものとして守ろうとします。金色の卵を産んだめんどりのように。きっと平和に静かにその場を去れないですね。でもイサクは去りました。


井戸を掘って水が出てきたらほったらかせますか。大変な作業の後に。母協会のケニアのはたらきでも頑張って9フィート掘りましたが奇跡が起こりました。もっと深く掘らなければ通常は水が湧きません。それも大変な作業です。きれいにして井戸から水を汲めるようになって、その辺の農民が文句を行ってきたからと言って簡単にその場を去れるでしょうか。私なら言い返して守ります。けれどもイサクはそこを出ていきました。二度も井戸を掘ったのに、道を閉ざされて立ち去りました。

どれだけ忍耐を試されたことかと思います。イサクはなぜこのように次の場所に向かえたのでしょうか。なぜ目の前で道が閉ざされた時それを手放せたのでしょうか。


私は先週見たところにつながっていると思います。

イサクは自分の長子権と自分が何者であったかを理解していました。彼は神様が共におられることもわかっていました。何が起ころうと、道がいくら閉ざされても神様が自分と共におられるとわかっていました。どこにいこうが、神様は次の土地で前の土地と同じように祝福をくださることがわかっていました。


イサクについて顕著なのはこのことです。困難にも穏やかに耐えたのはイサクの象徴的な性質です。多くの聖書の解説者は彼についてそう説いています。自分の父親や息子たちとは異なり、イサクは平穏な人だった。格闘せず、神が自分と共におられることを信頼して、物事を手放して、進みました。


まさに今私たちにもその教訓が必要です。いろいろな道が閉ざされています。動揺してパニックを感じますよね。私も何度もその経験があります。でも、神様はイサクと共におられたように私たちと共にいてくださいます。ほかのものが用意されているのである道が閉ざされるのです。


例:

ホライズンに留まる道が閉ざされたのは、同時に沖縄で私が成熟する道が開かれたことでした。バイリンガル礼拝が閉ざされたことで私のファンキーフライデイで過ごす道が開かれました。主が何かとられるなら他の何かをその手に与えてくださいます。待ってみるのならさらにまた何が与えられるでしょうか。


イサクは王からは追い出されますが、別の道が開かれて、王が彼の父と同じように彼と盟約を結びます。 

道が閉ざされまた開かれます。それには必ず理由があります。心配しないで。神様はいつもあなたと共におられて必要な祝福をくださいます。


まとめ:

主はイサクと共におられました。それはイサクの父や息子とは違う形であれわれましたがイサク自身に必要な、彼の召しにふさわしい祝福でした。


主は私たちそれぞれと共にいてくださいます。その形は異なるけれどもそれに捕らわれないでください。代わりにこれまで神様がどのように皆さんを祝福してくださりそれを周りの人のためにどのように用いられるか心に留めて感謝しましょう。


イサクは祝福されていることを確信して何が起ころうとも平和のうちに進みました。どうか、今週みなさんも主が共にいてくださることを覚えて平安のうちに進めますように。


アーメン


9 views0 comments