Japanese Translation: Genesis 29:21-30:2 (Message: Pastor Robinson / Translation: Ronald Akatwijuka)

Genesis 29:21-30:2

幸せへの鍵

本日の箇所では、二人の女性が何らかを強く求めている内容をみます。片方は、夫の愛情を求めており、もう片方はご自身が抱えている問題から夫に助けてほしがっています。彼女らは、これを得られたら、それぞれ抱えている問題が解決されることを期待していました。幸せへの鍵を求めていました。しかし、二人とも求めているものを得ても満たされないことを知りました。そして、二人とも完全に満たされる方に目を向けることになります。

創世記 29:21-30:2


私にないもの (V21-35)

7年間が経ち、ヤコブがこれまでされた仕事が報われます。ラケルと結婚することになります。ですので、彼はラバンのところに行って、約束したことを守るように尋ねます。

しかし、これまでヤコブの人生では人を騙したり、ごまかしてきたのですが、自分もごまかされることになります。人生でそのように生きていると、いざ、自分もだまされることになります。


イエス様がペテロにこう言いました、「剣を使う者は、自分もまた剣で殺されるのです。」

ですので、ヤコブ自身がだまされる日がきます。先週みたように、ラバンもヤコブと同じ性質の人間でした。ラバンがヤコブを騙そうとします。


ラバンは、宴会を用意して多くの人を招きます。しかし、暗くなってヤコブが見えなくなる時間を狙います。面白いことに、ヤコブ自身はお父さんは視力が悪いことを利用して騙した経緯がありました。今回は自身もよく見えない時間帯に騙されてしまうのです。

ラバンは夜暗くなる時間を狙いました。そして、新婦はベールをかぶるので、なおさら見えづらいです。この時に、ヤコブのところに連れて行ったのはラケルではなく、レアでした。朝ヤコブが起きた時に、横にいたのはラケルではなく、レアだったのでとても怒ります。

すぐラバンのところに行って、何が起こっているのかを尋ねます。


創世記29:26-27 「26ラバンは言った、「妹を姉より先にとつがせる事はわれわれの国ではしません。

27まずこの娘のために一週間を過ごしなさい。そうすればあの娘もあなたにあげよう。あなたは、そのため更に七年わたしに仕えなければならない」。


私の考えですが、ここでラバンが述べた理由は言い訳だったと思います。彼は自分の金銭的な得を狙って行動したと思います。これまでヤコブから7年間の労働を獲得していましたが、ヤコブがラケルを愛していることをわかっていたのでさらに7年間仕事してもらうことを狙っていたと思います。その実に、この後わかるのですが、ラバンは娘たちの持参金を自分の道で使ってしまいました。娘たちのために使うのではなく、自分に使ってしまいます。

同時に、ヤコブは、お兄さんを騙して父親の祝福を盗んだのですが、ここで長子の権利に自分も騙されます。


ここまで働いた7年間はレアのためにカウントされるが、ラケルもお嫁に頂くことになります。しかし、そのためにさらに7年間働きます。結果として、ヤコブは二人の妻ができるのですが、片方を愛していたのに、もう片方は求めていなかったのです。


創世記 29:30 ヤコブはまたラケルの所にはいった。彼はレアよりもラケルを愛して、更に七年ラバンに仕えた。


聖書は、ヤコブはレアよりも、ラケルを愛していたとはっきり記録しています。それを読んだときに、片方は特に好きですが、少なくとも二人とも愛していたなと認識されます。

しかし、次の節をみると、神様は同じ状況をこのように見ていました。


創世記 29:31 … 主はレアがきらわれるのを見て


ヤコブはレアをきらっていました。この事実を隠せないのです。ヘブライ語でもチェックして、もう少しニュアンスを柔らかくする方法があるか を見ましたが、ヤコブはレアをきらっていたとしか読み取ることができません。


ヤコブは、レアを欲しくなかったのです。それなのに、7年間も彼女のために働くことに騙されました。彼は無駄の7年間と思ってたかもしれません。その事実に彼はかなり怒りを感じていたかも知れません。彼は毎回彼女の顔をみると、嫌な憶いをし、レアをきらうことになっていました。


レアはかわいそうです。愛情のない結婚に挟まっています。自身の夫にきらわれています。どれだけ大変だったか、想像つきません。しかし一つ想像できるのは、彼女はこのことでかなりつらい思いをされたことです。 毎日、夫がラケルに対して優しい姿をみて、自分も同じように愛してもらいたかったのです。


もし、それが実現されたらすべては良くなるのだ。もし夫に愛してもらえたら、恋しくしてもらえたら、すべてが良くなるのだ。彼女はずっとそのような願望を抱いていました。夫の愛を得られたら、自分が満たされるとの願望です。

彼女に対してヤコブのフィリングはどうであれ、神様はレアをとても愛していました。神様が彼女のつらい思いをみて、なおさらご自身の愛を彼女に示したのです。彼女にたくさんの祝福を与えたのです。


神様は彼女の胎を開きました。この時点では、ラケルはみごもらなかったのですが、神様はレアに子供を与えました。これは神様からの大きな祝福でした。神様がレアに対して恵みと愛を示したのです。


しかし、このような多くの祝福を与えられても、レアの思いは与えられた子供でもなく、その祝福を与えた神様にもなく、夫の愛を望んでました。与えられた祝福よりも、もっていないものに思いをしていました。彼女は、もってにないものから幸せを得ると思っていました。


例:私は16歳のとき、神様からとても多くの祝福をくれたのです。来日する機会を与えられました。その後、毎年に何らかの手段を与えられて日本にくることができました。 経済的な必要をすべて与えられました。日本に長期的に住みたいと思ったときに、その手段を与えられました。値もしなかった3年ビザーを与えられました。1年のビザをもらえるかどうか心配だったところ、3年間のビザを与えられました。その時に「神様に感謝」と一番最初に思ったのですが、その後すぐに「3年間ももらったので日本人の妻を見つけます」と思いました。


神様は私たちに祝福を与えられるのですが、私たちの注目は祝福から離れて自分の得を考えてしまいます。私たちが幸せと思う方に注目してしまいます。

レアの場合でもこの傾向がみられます。

長男が産まれたときに、こう言いました。


創世記 29:32 レアは、みごもって子を産み、名をルベンと名づけて、言った、「主がわたしの悩みを顧みられたから、今は夫もわたしを愛するだろう」。

「ルベン」のヘブライ語を訳すと、「見よ、息子」。ですので、名前から彼女の伝えたいメッセージははっきりしています。彼女の注目は息子ではなく、夫に見てもらいたいのです。自分の価値をアピールするように、「見よ、息子を産んでやったでしょう。私を愛してくれる?」


主の祝福についても言及します。自分がつらかった時に神様が見てくれたことを触れます。しかし、最終的には、夫にもどって「今は夫もわたしを愛するだろう」と言います。

ところが、実態はそうではないのです。物事はそのような展開で進まないのです。

というのは、二人目の息子が産まれたときにこう言っています。


創世記 29:33 彼女はまた、みごもって子を産み、「主はわたしが嫌われるのをお聞きになって、わたしにこの子をも賜わった」と言って、名をシメオンと名づけた。


彼女の言葉は過去形ではなく、現在進行形の「主はわたしが嫌われるのをお聞きになった」というものです。一人目が産まれても嫌われることに変化はなかったのです。今二人目を産んだので、もう嫌われることないでしょうとの期待で、神様に感謝して「主はお聞きになった」という意味を持つシメオンの名前をつけたのです。

しかも、これもまた問題が解決されないのです。三人目が産まれます。再び神様に祝福されます。


創世記 29:34 彼女はまた、みごもって子を産み、「わたしは彼に三人の子を産んだから、こんどこそは夫もわたしに親しむだろう」と言って、名をレビと名づけた。

二人目の時ではまだヤコブに愛されなかったのです。まだヤコブと結ばれているように感じていません。その故、3人目の子供にレビという名前をつけて、「結ぶ」という意味をもっています。夫に3人も男の子を産んだので私にくついてくるでしょう」。また神様の祝福を自分の得に繋げようとしています。


しかし、この時もそうなりません。3人の息子がいても夫に愛されません。そして悲しいことに、この後もずっと夫に愛されないのです。何人の息子を産んでも夫の気持ちは変わりません。彼女の望んでいる夫の愛は得られません。彼女は、夫の愛が得られれば幸せになると思っているのです。


そして、彼女はどこかで決断しなければいけません。追い求めている夫の愛を求め続けるか。これまで3回あったように、それに注目して神様の祝福を忘れてしまうか?

もしくは、別の方向を見るか。自分の人生に注目するか。得られないものばかりに注目せず、与えられた祝福に注目するか。子供たちを自分の得のために考えるより、子供を与えられたことを喜び、お与えになった神様に喜ぶかT。


4人目のこどもが産まれたときそれが明らかになりました。

創世記 29:35 彼女はまた、みごもって子を産み、「わたしは今、主をほめたたえる」と言って名をユダと名づけた。そこで彼女の、子を産むことはやんだ。

ここでシフトをみますね。最初3人は夫を意識して名前つけました。私を愛してくれるでしょう。もう私をきらわないでしょう。私に付いてくるでしょう。 しかし、4人目の息子の時は夫のことを考えていません。


彼女「私は今」と言っています。 今は私にないものに目をそらされることなく、「主をほめたたえる」と言います。


これが私たちが選べるもう一つの選択肢です。神様から与えられたものを見ることです。その祝福をみて賛美することです。その祝福を憶えて感謝することです。与えて下さった神様に礼拝することです。


「今、主をほめたたえる」ということを覚えてかれに「ユダ」という名前をつけたのです。


4人目の子供に「ユダ」、という「賛美」と訳す名前をつけたのです。 レアとラケルに産まれたすべての子供の中から、ユダという「賛美」の子にイスラエル王が与えられます。そして、イエス様ご自身もこのユダ族で産まれました。 レアが自分の欲望よりも神様に目を向けたときに、より素晴らしいものが出てきました。


例:私たちの交わりをみて、ほしいものはたくさんあると感じるかも知れません。 前より集う人数は減ったことや、外国人の入国がなくなったことに悔しさを感じるかも知れせん。つまり、ここにいない人のことに注目してしまうことですね。しかし、反面に、ここにいる人たちと一緒に与えられた交わりに喜ぶこともできます。この時にこの場所と時間を与えてくれた神様に感謝することができます。


後半の方が良いと私は思いますが、みなさんどうでしょうか?

次に、レアの妹のことをみます。彼女は別の問題で悩んでいました。

私にあるもの(30:1-2)


ラケルについてみます。ラケルはレアがとても欲しがっていたものを持っていたのです。ヤコブは彼女を愛していました。最初からヤコブはレアよりもラケルの方が好きで、時が経ってもそれに変わりはなかったです。レアは、ヤコブの愛情さえあれば幸せと願っていたのですが、ラケルの場合はヤコブに愛されていても幸せではなかったのです。

彼女は愛されているのですが、子供がいないのです。そしてレアに子供ができていることに妬みを感じています。子供のおかげで、お姉さんの方が前に出ていると感じています。しかし、これまではラケルの方が前だったのですね。ラケルの方がお姉さんよりも美しかったです。このことで、産まれてからずっと、お姉さんよりもラケルの方に注目があったのかも知れません。


例:私が小学生のときに、同じような経験をしました。私の友達はとてもハンサムでした。長い白髪があり(当時はとても人気でした)、運動神経もよかったです。とても人気でした。 そして私は、まあ私でした。彼と遊んでいても、まわりに来た人は彼ばかりに話していました。私の前で彼だけをパーティーに誘っていました。彼はとても良い人だったので、「アレックスも一緒に行って良い」と、誘われた人に聞いてくれて、「まあ、アレックスね。忘れていた!一緒に来ても別に良いよ」。彼の方が圧倒的注目されていました。


ラケルも、最初からヤコブの注目を得ていました。彼女のためにヤコブは7年間も働いていました。このことはみんなが知っていたので彼女に注目があったに違いないのです。

しかし、4人の子供ができて一つわかったのは、注目については子供の方が100%勝つのです。町田の交わりで挨拶をしているときに、私に挨拶しているはずなのに相手はずっとこどもを見ています。


レアにはこれだけたくさんの子供ができています。彼女の方に注目が移っています。ヤコブにとっては変わりないのですが、それ以外は殆どレアの方に注目が移っているはずです。そしてラケルはこのことに不満を感じています。面白いことに、彼女の不幸はヤコブに打つけます。


創世記 30:1 ラケルは自分がヤコブに子を産まないのを知った時、姉をねたんでヤコブに言った、「わたしに子どもをください。さもないと、わたしは死にます」。

この状況はヤコブが悪かった訳ではないのです。アブラハムとサラの時と同じような状況でした。長年、子供ができなかった理由はアブラハムにあったか、サラにあったかわからなかったです。しかし、アブラハムはハガルに子供ができた時に、理由はアブラハムになく、サラの方にあったことが明らかになりました。

ここでも、ヤコブはレアと子供できているのでヤコブに理由がないのです。しかし、ラケルはヤコブを責めています。「わたしに子どもをください。さもないと、わたしは死にます」。


なぜこのような状況ですか?


“私たちがアイドルと思う人を、また攻めます。” - Pastor Marc Driscoll


私たちにないものについて、「それさえあれば幸せ」とばかり思って不幸になります。そればかりを追い求めることによって、与えられた祝福に喜ばないことがあります。レアの場合はそうでした。


時には、私たちの幸福を私たちが持っているもの、または人にカウントすることもあります。夫なのか、妻なのか、子供なのか、友達なのか?私たちに、そのような存在から幸せを得ると信じることがあります。私たちが抱える問題から救ってくれる存在としてしまいます。つまり、アイドルとしてしまいます。


しかし、私たちがアイドルにしていたものから救われない時に、その人・もの・アイドルをせめてしまいます。 「あなたから幸せを期待していたのに。今私は不幸なのはあなたが悪い」とせめてしまいます。


私たちがアイドルと思う人を、また攻めます。


これは、結婚関係の中によく起こります。私たちが未婚に満たされず、結婚したら幸せになると大きく期待します。そして結婚後も満たされないと感じた時に、夫・妻をせめてしまいます。「あなたが幸せにしてくれる存在だったのに。あなたが悪い。本当に幸せにしてくれる別の人を見つけます」。現在の離婚率が高いのはその結果です。

しかし、結婚は自分が何を持ってくるものになります。結婚前にあなたが幸せでなく、満たされていない存在だったら、結婚後も、その重さを他の人にかけるだけで、幸せになれないのです。人を幸せにするという大きな責任は誰に求めても重いのです。

子供たちに求めることもあります。子供ができる前は満たされず、「子供がいれば幸せだろうな」と思ってしまいます。または、結婚関係に不満を抱えて、子供ができたら解決されると期待してしまいます。子供が産まれて、こどもっぽいことをすると、私たちはそれも受け入れない。状況以上に強く反応してしまいます。「なぜあそこまで怒ったのか」、自分にも不思議になります。これは、子供の存在が解決すると内面的に抱えていた期待に添えなかった反発に過ぎない場合があります。


彼らの小さな肩に、私たちは思わず期待の重みを付けているのです。子供は私たちの不満の解決にならなかったのですが、本来なら、それは彼らの仕事でもないのです。

私たちはそこに期待してアイドルを作ってしまいました。私たちの不満を埋めることができないので、アイドルにしていた存在をせめてしまいます。

ラケルも、ヤコブをせめてしまいました。私の不満を解決しろ!あなたが悪い!ヤコブはこれに対して、怒りの中ですが正しいことを言います。


(怒りの中で言われたから、もらった言葉を捨てないことも大切です。怒りの中で私に必要な言葉を聞かせたケースはたくさんあります。常に耳を開いていましょう。高慢のあまりに真理を捨てないようにしましょう。)


創世記 30:2 ヤコブはラケルに向かい怒って言った、「あなたの胎に子どもをやどらせないのは神です。わたしが神に代ることができようか」。


これは、ピンポイントの答えでした。この質問こそ、ラケルが聞かなければいけなかったのです。私が神に代わることができようか?

正しく、ラケルはヤコブを神様のような存在にしていました。人をアイドルにすると、このような結末になることが多いです。


ラケルは、神様にしかできない仕事をヤコブの肩においています。ヤコブはそれに対して怒るのは当然のことです 。


あなたの幸せ、満足、これらは神様にしか答えられない課題です。神様意外に、その重みを求めても、確実にがっかりします。 彼らは悪いわけではありません。というのは、そのような大きな責任に答えるのが、彼らの仕事ではないのです。彼らをせめると、当然のように怒ります。なぜならば、自分にできないことを求められたからです。

他に救い主を求めるのと同じことです。唯一私たちを救うことができるのはイエスキリストのみです。その重みを他誰に求めても、その人は持てないのです。夫・妻は持てません。子供も持てません。結婚相手や子供は神様に代わることができないからです。

そして、人間関係でそのような大きな期待をしている人がいれば、それについて謝るべきでです。彼らの最善の努力でさえ、期待に添うことはできないのです。


神様唯一が完全に答えることができるのです。神様の恵みだけが完全にカバーできるのです。神様からくる喜びのみが答えです。神様だけが唯一満たすことができます。心の中に埋めないといけない穴は、神様だけが埋めることができます。なぜかと言うと、その穴の大きさは神様しか追えないのです。

私たちはそのように設計されて造られたのです。


“神様はこう言います、「一人一人の男性・女性の心に、私しか埋められない穴を設けます。そうしなければ、彼・彼女は他の人間またはものに注目して失望しまいます。それらものに目をそらされて落胆して、暗くなってしまいます。反面に、私に目を向けるなら、彼らを失望させないことをわかります。神様はご自身に完全に頼る存在となるように造られたのです。レアのように、他の人間から満足を求めることをやめて、完全に神様に目を向ける人は、自由にされて、神の賛美を歌えます。」 - Pastor Jon Courson


私たちは、誰に、または何に幸せを求めているのでしょうか?神様意外に求めているのでしょうか?その結末に失望や怒り、痛みしかありません。その道では満たされることはありません。


ラケルはその事実を理解していなかったのです。彼女の人生で死ぬまで、他の人に追い求めていました。後ほど彼女に息子ができるのですが、その名前を「ヨセフ」と呼びます。ヨセフは、「神よ、もっと欲しい」という意味です。 ヨセフだけは満たされなかったということです。第二子の出産時に死んでしまいます。彼女の最後の息で “ben oni”と「我が悲しみの息子」と呼んだのです。彼女からの最後の言葉は、悲しみでした。その後は、ヤコブが哀れんで「ベンジャミン」と名前を変えました。


結論:

ラケルの道は悲しみの中で終わってしまいます。しかし私たちはその道をまねしなくても良いのです。


レアの道を選ぶこともできます。私たちの幸福・満たしの期待の重みを人の肩から下ろして、神様の手に移すことができるのです。世の中から心の穴を埋める存在を追い求めるのをやめて、神様に待ち望むことができます。神様は人間がご自身を求めるようになるためにそのように設計して造られたのです。レアにユダが産まれて新たな始まりになったように、私たちにも新たな道になります。 レアの道は悲しみではなく、賛美で終わります。


アーメン 





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