Japanese Translation: Genesis 3:1-13 (Translation by Yumi Takeuchi)

Updated: Nov 11, 2020

2020・5・31 ホライズンチャペル世田谷 英語礼拝メッセージ (アレックス・ロビンソン) 「責任をとること」 創世記3:1-13

今日も創世記、すべての始め、男女の始めの話を続けよ う。しかし、今日は初めての罪について学ぼうと思う。何 が罪をもたらしたのか、その過程と根拠について学ぼうと 思う。そして、最後に私たちにはその責任があることを確 認したい。神の言葉と私たち人類の行動をどう理解すべき かを考え、イエスキリストが、どうようにしてその両方の 責任を負ってくれたのかを見ていきたいと思う。

さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も 狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木から も取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのです か」。女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食 べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実 については、これを取って食べるな、これに触れるな、死 んではいけないからと、神は言われました」。へびは女に 言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を 知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がそ の木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くな るには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また 共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの 目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじ くの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。彼らは、日の涼しい 風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。

そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に 身を隠した。主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたは どこにいるのか」。彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる 音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したので す」。神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせ たのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食 べたのか」。人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあ の女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。

そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということ をしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたので す。それでわたしは食べました」。(創世記3:1~13) 神は本当に言ったのか? ヘビがエデンの園でエバに近づいてきて、まず神の言葉につい ての質問を始める。「神は本当に~と言ったのか。」 もし私が誰かと闘い、相手がナイフを取り出したら、その闘い の焦点はナイフにあてられるだろう。

相手を攻撃することより、まずどうやってそのナイフを相 手の手から取り上げるかにフォーカスをあてるだろう。武 器を取り上げることだ。そうすれば、相手を打ち負かす チャンスを手に入れられるのだ。相手がナイフを持ってい るうちは、チャンスはない。 同じように、神の言葉と言うものはクリスチャンが敵を攻 撃するときの最大の武器である。神の言葉の真実を知って いれば、敵のだましごとを見分けることができるのだ。

エペソ書で神の言葉は御霊の剣であることを学んだ。それは、 聖霊の武器で、私たちが攻撃されるとき、聖霊が神の言葉を私 たちに思い出させてくれる。だからみ言葉を蓄えれば蓄えるほ ど、聖霊は多くの武器を持つことになる。私たちの手にあるの はナイフだ。敵は神の言葉を攻撃することに躍起となるはずな のだ。私たちの人生、手からそれを取り上げようとする。敵は 我々の手からその言葉を取り上げれるか、握っている力を緩め させさえすれば、勝てると思っているのだ。

敵が人類に対して行った最初の攻撃は、神が人に語った言葉に 対しての攻撃だった。「神は本当に言ったのか?」 この最初の攻撃で興味深いことは、人への神の言葉を誇張して いることだ。神の戒めはたった1本の木からとって食べてはな らないというものだった。「善悪の知識の木から食べると死ん でしまう」というものだった。しかし、サタンは神は本当にど の木からも取って食べてはならないと言ったのかと尋ねた。 神は1本の木と言ったのに、サタンはどの木からもと言った。

これは、大きな誇張で、簡単に見破られる嘘だと思うだろう。 しかし、なんと多くの人がこの攻撃にやられてしまっているだ ろうか。聖書の戒めはすべてのことを禁止しているとか、聖書 に従うと自由に生きられないとか、人生を楽しめないとか、 良いものでさえ手に入れることができなくなるなど。園のすべ ての木から食べることを禁止されていると誤解する。 例話:私の友達が、何年間も、あるポストに就きたいと願って いた。そしてついにその時がきて、昇進することになった。

しかし、このポストに申請するときになって、彼女はデボー ションをするのが恐ろしくなり、聖書を読むことが怖くなっ た。神はもしかしたら、そのポストについてはならないと言う かもしれない。それでそのことについて祈りもせず、教会の仲 間や私にも話さなかった。相談したら神がそれを止めるだろう と思っていた。神はそれを取り上げるだろうという嘘を信じた のだ。最終的に彼女は教会のみんなにそのことを話し、一緒に 祈ることが出来た。そして夢に見たポストを手に入れたのだ。

サタンは神の言葉を曲げ、神が良いものから我々を遠ざけよう としているように思いこませる。そこから離れよう。ただあな たを制限するだけだ。5節にもこのテーマが取り上げられてい る。「神はご存知なのだ。あなたに何かを隠しているのだ。陰 謀があるのだ。神の言葉を聞いてはいけない。」と。 しかしそれは嘘だ。真実ではない。神はわたし達の味方だ。神 の戒めはすべての木と言ってはいない。今日も同じで、神はあ なたが命を得、それを豊かに得ることを望んでおられる。

神は、何一つ良きものをあなたから取り上げたりはしない のだ。 ローマ8:32 ご身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者 のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず 万物をも賜わらないことがあろうか。 それどころか、この戒めは彼らを死から守るために与えら れたのだ。今日も、み言葉は同じ目的をもっている。

私たちを死に至らせるものから、私たちを守っているの だ。偶像から、私たちを縛り奴隷のようにするものから、 そしてイキイキと生きられないようにするすべてのものか ら、守ってくれているのだ。 善悪を知るということ さて、エバは神の言葉を理解していたので、この最初の攻 撃に屈することはなかった。3節ではっきりと、禁止されて いるのはすべての木ではないと答えている。1本だけだと。

しかし、この応答の中にいくつかの間違いをみることができる。 まず、彼女はその木の名前を知らないようだ。アダムに与えられ た神の戒めにおいて、その木の名前も伝えられている。「善悪の 知識の木」である。しかし、エバはその木をただ「園の中央には えている木」と言い、神の戒めを完全には理解していないよう だ。また、不完全なだけでなく、不正確でもある。神はその実を 食べてはいけないと言っているのに、エバはそれに付け加えて、 それに触れてもいけないと言っている。

このことはもちろん、論理的にはあっているかもしれない。食 べてはいけないというこんな危険な実ならば、その近くに行く ことさえやめた方がいいだろう。これは彼女自身の決断だった かもしれないし、アダムの考えかもしれない。どちらにして も、彼女は神がそう言ったかのようにそれを伝えたのだ。 「神は~とおっしゃいました。」 エバの理解は不正確で不完全なものだった。このあやふやな理 解によって、サタンは次のステップに入ることができた。

彼女をだまそうとしたのだ。そして、まんまと成功した。 その場所で彼女はその実を食べてしまい、堕落したのだ。 そしてやがてアダムもそのようになった。結局人類が堕落し たのだ。ここで、質問が出てくる。これは誰の責任だろう か。アダムか、エバか。この文で分かるように二人ともその 責任を取ろうとはしなかった。「アダム、誰が悪いのか?」 「エバです。」「エバ、誰が悪いのか?」「ヘビです。」 その答えは、二人の責任なのだ。

ふたりとも 1.エバに責任がある。 エバは、神の言葉を不正確で不完全にしか理解していない ことに、何の問題も感じていない。その木の名前を知ろう ともしていない。ただ、「あそこにある木」で満足してし まっている。理解が不完全だと、当然思い込みを土台にし た不正確なこと、正しくないことが起きてくるものだ。

多くの場合、私たちも同じように神の言葉を扱うことがある。 自分勝手な不完全な理解で満足してしまう。更に深く学ぼうと いう姿勢をもたない。基礎的なことはわかっている。有名な日 曜学校の聖書物語は知っている。それで、十分だ。更に深く知 る必要はない。聖書を読んでも、集中して読んでいない。良く 知っている部分に来るとそれを飛ばし、知っているからいいと 思う。あまり読みたくない難しい部分に来ると、それらも飛ば す。レビ記?今は新しい契約の時代だと言って飛ばす。

伝道の書・・エレミヤ書・・気分が暗くなる。飛ばそう。民数 記・・数字だらけ。飛ばそう、飛ばそう、飛ばそう。それでは、 神の言葉の理解を深めることは無理だ。知らなくてもいいと思っ てしまっているのだ。 そして、私たちは他の個所を自分の思い込みによって理解しよう とする。「そうね、正しく感じる。神が言いそうなこと だ。・・・」 時には、ちゃんとわかっていないことを知ってい ても、不正確なままで、それを受け入れてしまっているのだ。

しかし、問題はサタンは神の言葉を知っているということ だ。最初から最後まで知っている。私たちの理解不足をいか に利用したらいいかをよくわきまえているのだ。 サタンはイエスを誘惑した時、聖書を用いた。マタイ4章で、 「彼はイエスを宮の頂上に立たせ、『飛び降りてごらん。...と 書いてある』」と言って、詩篇を引用した。『神はあなたのた めに御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけ られないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』

この節だけをとりあげたら、「ワオ!飛び降りても天使が私を 助けてくれるんだ。やってみたい。」と思うだろう。 しかし、イエスはその聖書の個所をもっと正確にご存知だっ た。それで、サタンが言ったことを負かすことが出来た。『主 なるあなたの神を試みてはならない』 イエスは神なのだから、聖書を知っているのは当然だと思うか もしれない。その通り彼は完全なる神であったが、完全なる人 でもあり、私たちと同じように聖書を学ぶ必要があったのだ。

イエスが13歳の時、宮において質問をしていたということ が書かれている。それは、聖書を学んでいたのだ。ご自分 で責任をもって聖書を理解していたのだろう。学び、質問 していた。そうすることを選び取ったのだ。 エバはみ言葉を不完全な理解で満足してしまい、いざと言 うときに、敵の攻撃に無防備になってしまった。そのた めに堕落したのだ。それは彼女の選択だった。

しかし、私たちは母なるエバに従う必要はない。従うべき 人がもう一人与えられているのだから。彼女と同じ誘惑に 合い、それに勝利されたお方がいるのだ。ご自分で責任を もって神の言葉をマスターしたイエスだ。イエスの例に倣 おうではないか。み言葉を学び、更に深く学び続けるので ある。そうすることによって、敵に対抗してしっかりと立 ち上がることが出来る。 また、アダムにも責任があると思う。

2.アダムに責任がある。 再び言うが、神の戒めはアダムに与えられたものだ。だから、彼 には妻にそれを伝える責任があった。エバの記憶が不完全で不正 確だった理由はおそらく、アダムが正確に彼女に伝えなかったか らではないだろうか。 例話:男はよく、時に適当な話し方をするものだ。「あの木にさ わっちゃだめだよ。死ぬからね。」 エバはこんな言葉しか彼か ら聞いていなかったかもしれない。少なくともそう考えられる。

それ以上に、その時アダムがどこにいたかという問題が浮き上 がってくる。エバが最終的にその実を食べることにした時に は、アダムがそこにいた。エバがヘビと話をしていた時にも、 アダムはそこにいたはずだ。エバが神の戒めの言葉を不正確に 伝えていた時、彼もそこにいたのだ。そしてさらに、彼女が実 を取り、食べた時にも、そこにいた。その間、彼は一言もしゃ べっていない。この一連の出来事の後すぐに、神がアダムに 「あなたはどこにいるのか。」と聞いているのは興味深い。

この質問には、いくつかの意味があると思う。 「アダム、あなたの妻、骨の骨、肉の肉がヘビと話している。あ なたはどこにいるのか。アダム、あなたの妻が私の戒めを間違っ て伝えているではないか。彼女はちゃんと理解していない。 あなたはどこにいるの。アダム、あなたの妻が実を食べているで はないか。あなたはどこにいるの。」 アダムはがっちりとした強い男だったのだから、そのヘビを殺 すこともできただろう。でも、そうしなかった。

自分の耳で実際に神の言葉を聞いたのだから、アダムはエバの 言葉を訂正することもできたはずだが、それもしなかった。そ れを食べると死ぬということを知っていたのだから、エバをそ の木から離すこともできたはずだ。でも、何もしなかった。 「あなたはどこにいるのか。」 聖書には2種類の罪があることが明らかだ。行いの罪―しては いけないことをする罪。もう一つは、行わないことの罪ーすべ きことをしなかったという罪だ。

アダムの罪は、すべきことをしなかった罪である。彼は何もし ていない。 多くの場合、私たちは同じことで罪悪感を感じるものだ。何も しなかったという罪悪感である。 やろうと思えばできたのに、しなかった。適切なみ言葉を知っ ているのに、伝えなかった。間違いを見たのに、正さなかっ た。関わりたくなかったのだ。自分とは関係ないと思った。ど う考えようとも、アダムは妻の責任をとろうとしなかった。

また、男と言うものはよく仕事を分けて考える。私の仕事は 私の仕事。それが終わったら終業。家に帰ってゆっくりす る。恐らく逃げ腰なのかもしれない。仕事は大変だから、も う考えたくない。テレビやゲームやスポーツなどに逃げて、 そこに存在していても、頭の中は他のことを考えている。 恐らくアダムも、仕事を終えてぼーっとして、これらのこと が起こっている時にも、どうでもいいと思っていたのかもし れない。とにかく、彼は何もせず、何も言わなかったのだ。

まるで、彼はそこにいないも同然だった。 どこにいようとも、ちゃんと意識するようにしよう。職場 にいる時はきちんと仕事をするべきであり、家にいる時は ちゃんと家族の世話をしよう。妻と一緒にいる時は、意識 して一緒にいるべきであり、聖書について語り合おう。教 会にいたら、意識して兄弟姉妹とみ言葉を話し合おう。私 たちは父アダムの間違いを繰り返す必要はない。なぜなら、 第二のアダムが与えられているのだから。イエスに倣おう。

アダムは、自分は関係ないと思ったかもしれないが、イエスはご 自分のことと考え、御座を去ってこの地上に来てくださった。 アダムは、いざこざに巻き込まれたくないと思ったかもしれない が、イエスは私たちと共に住まわれるために、天と地を動かされ たのだ。 アダムは、妻にしっかりと神の言葉を伝えられなかったが、イエ スご自身が神の言葉であり、肉体をとって私たちの中に住んでく ださった。

アダムは、妻を助けるためにヘビを殺さなかったが、イエ スはヘビの頭を砕き、彼の花嫁を救ってくださった。 それが私たちのイエスだ。私たちの主だ。その方こそ、 私たちが従うべきお方だ。

アーメン







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