Japanese Translation: Genesis 39 (Message: Pastor Robinson / Japanese Translation: Akiko Takeda)

聖書朗読

創世記39章

植えられた場所で咲きましょう

導入:

あなたは神があなたを誤った場所に置かれたように感じたことがありますか? 何かの間違いであなたがいるはずの場所に居ないかのように。そういう経験があればヨセフが今日の箇所で何を感じているか理解できると思います。彼は安全な家から離されて、エジプトで奴隷に売られたように。でも本当に面白い展開になります。ヨセフにとってすべて逆境のように思えた場所で彼は繁栄します。またその繁栄を通して周りの人の祝福となります。また神様は常にご自身の民と共におられて、神様が民をどこに植えようとそこで花を咲かせるのに必要なものをすべて与えられるのです。それだけでなく、繁栄させる人のいる場所で他の人に祝福があふれます。

創世記39章を朗読します。

困難の中に植えられる

さて、ヨセフのお話を見ています。先週の箇所では神様がヨセフの人生に特別な方法ではたらかれていたか見ました。それ以前の人とはすこし異なる形です。

アブラハム、イサクとヤコブに対する神様の導きは明確でした。実際、神様ご自身がそれぞれに現れ、神様は何を成し遂げるのか、彼らがどこへ行き何をするべきなのか、示しました。ヨセフの場合は神様が少し違う形で導きをされたことを見ました。神様はヨセフに夢を与えました。また兄弟たちとほかの家族に対して権威を持つことを示す夢でしたが少しあいまいでした。夢を見たヨセフにはどのように、またいつなのかは示されませんでした。自分に対する主のみこころが何であるかはわかりませんでした。

また、神様がヨセフの人生ではたらかれた様子も彼の祖先たちに対する方法と異なっていました。ほかの人は困難から救い出されることが多かったのです。ある人たちは妻を王に渡してしまったときに神様が即座に介入しました。妻を取り戻しました。ヤコブが兄弟のエサウと問題を抱えた時には神様が彼の心にはたらかれ、彼が変えられました。ですが、ヨセフにはそのようなことが起こりませんでした。

エサウのように、ヨセフの兄弟たちの心は変えられなかったどころか、彼を奴隷として売ってしまうまで憎しみが募ることをゆるされました。神様は奴隷商人にも、それまで王に対してされたようにははたらきませんでした。 そうではなく奴隷商人がヨセフをエジプトに連れてゆき、プティファルと言う人の家に売られるようにされました。

このように、ヨセフの神との歩みはそれ以前の人たちとはかなり異なっていました。ヨセフがこれらの出来事で混乱を覚えたのは容易に想像ができます。特に祖先の話を聞いて育ったのですから。自分の祖先には神様はいろいろと明確に示されたのに自分にはあいまいな夢をいくつか見せただけでどう成就されるのかは示されない。それ以上にまだ啓示をくださっていないし何か書き残されているわけでもない。そして祖先は神様に困難から救ってもらったけれど僕が奴隷になることを神様はゆるされた。困難が起こる事を許されたんだ。そこから神様はまだ自分を救ってくださらない。

この瞬間に皆さんがヨセフだったらどう感じるでしょうか。ポティファルが自分を奴隷として買い、畑で働かされます。またヨセフは奴隷の中でも新入りだったので他の奴隷のしたくない汚れるような作業をさせられたのでしょう。皆さんだったらそこでどう感じますか?

欲求不満でイラつきますか?置かれたところや境遇に対して、兄弟たちの企みに怒るでしょうか?または悲しくて落ち込んでしまうでしょうか。

もうこの世の終わりだ、望みは絶たれたと思えてくるかもしれません。

神様に対して怒りがこみ上げるでしょうか。こんな状況をゆるされたことを。神様の祝福から遠く、見捨てられたように思えるかもしれません。または神様に凝らしめられていて自分の味方ではないと思えるかもしれません。無理もないです。

ヨセフがこの一部、またはすべての気持ちになっていても自然なことです。困難のただなかでは私たちはそのような気持ちになるものです。厄介なことがおそってきて周りが暗くなるような感じです。まさに決して居たくないような状況です。

困難にあって花を咲かせる

ヨセフがどう感じていたにせよ、この箇所には明確な事柄が書かれ、私たち読む者に真理が与えられています。

"

創世記 39章2節

主がヨセフとともにおられたので、...

さて、これまでは困難から救い出されることが、主がご自身の民と共におられるというしるしでした。私たちもどれだけ聖書を読んで、何年クリスチャンであってもそう考えます。神様あなたがいてくださるなら困難から救ってくださるはず・・。

経済的なピンチからも、結婚生活や子育ての問題にも陥らないようにしてくださるはず。職場でも順調で家庭でも居心地よくいられるようにしてくださるはず。

ところが、仕事はどんどんつらくなり、同僚ともうまく行かずすべて自分には逆境のようです。学校で先生が自分に敵対して、教えてくれるのではなくだまそうとしているように思えるかもしれません。仕事や学校から、安心できるはずの家に帰っても戦争のようです。

例え:

ゴールデンウイークがやってきました。金曜から休みを取る人は木曜からですね。やっと休める、と皆楽しみにしていた時期でしょう。皆さんはどうでしょう、休息が取れていると良いのですが。

けれど、計画したように事が進まないことがありますね。先週木曜日に私は休みをもらう祝福がありました。めったにない週の真ん中の休日なので楽しみでした。元々いろんな祝日が月曜になるので私には元から休みなので祝日はあまり期待していません。だから余計に今回は楽しみにしてたのです。上の2人は家を跳ね回っていて、まだまだイヤイヤ期の3歳児、そして前夜から風邪を引いて鼻水の出ている赤ちゃんです。もうオフィスに行ったほうが楽だったというほどその日の終わりはクタクタでした。皆さんは子供が跳ね回っていないかも知れませんが、せっかくのゴールデンウィークに緊急事態宣言が発令されるなんて、どこにも行けないなんて計画はなかったはずです。つらい状況です。

でもここでヨセフの、この創世記のエピソードがあるのは私たちには恵みです。なぜなら困難にあわないようにされるかどうかに関わらず、神様が私たちと共にいてくださるからです。神様はヨセフから遠く離れているのではなく、共におられます。これまでと変わらずすべ治める神様、すべてを制する神様です。

例え:

今日はどの箇所からメッセージをするか悩んでいました。この箇所は町田の皆はもう聞いたけど、イザヤ6章にするか。。その箇所はイザヤの人生において大きな困難が起こります。ウジヤは良い王でイスラエルを霊的に生まれ変わらせ神様に向けました。イザヤはウジヤ王の預言者として主の道を歩むよう助言しました。けれど急にウジヤは高慢になり、自分に祭司や預言者がつとまると思い始めます。それはイエスのみにあてはまることです。そこで神殿に行き、主の前で香をたきますが最後はらい病にみまわれ死んでしまいます。この人の預言者であったイザヤはこの人が順調だったのに突然悪い方向に行った様子に直面します。そしてその困難のただなかでイザヤは天の幻を与えられます。それは神が御座におられるという幻で、神様はヨセフと同様にイザヤに励ましと洞察を与えました。状況はひどいけれどもご覧、わたしはなおも御座にいる。そこを離れてもいないしすべてを制するのだ。いまだにわたしがはたらいて、この場所を離れていないのだよ。

神様がヨセフと共におられたので、困難にいたけれども彼は栄えることが出来ました。そのことを見ていきましょう。

創世記 39章2~4節

"主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。 彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。 それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。"

これは重要なところです。

ヨセフの状況を見ればこの環境で栄えるのがいかに難しいかわかります。ヨセフは故郷から離れたエジプトに居り、よく知らない外国語が話されていて、文化も彼の慣れ親しんだものではありません。

例え

私たちの多くが日本で生活を始めたころのようですね。故郷ではないこの土地が日本語は外国語です。理解できなかった文化の中・・栄えるなんて考えられません。

けれど数年後、こうなりました。日本語を話して、それもまぶしいくらいに流ちょうな人も居て、いまだに私はびっくりします!自分の故郷ではないし異文化だったのに自分たちのものとなりました。もはや故郷以上の感覚の人もいるでしょう。日本人の人より日本らしいふるまいをする人もいます。驚くべきことです。当然無理だと思えましたがどうしてこんなになったのでしょう。

ヨセフもこれまでにしなかったことをしています。お気に入りの息子であり可愛がられていました。奴隷なんかになったこともありません。奴隷の生活も、主人がいる状況も、これまで何も彼は何の準備もしてこなかったものです。

例え:

同様に、私たちの多くが日本に来るまで知るはずもなかったことにたくさん出会いました。大抵誰かに叱られるまで知らないような気まりがあって、説明してもらえないままその決まりを破って怒られます。それも3年くらいそのルールを知っていることを期待されていてため込んだ怒りをぶちまけられる。。きつい環境です。何年もの後、こうして元気に暮らし栄えています。どうしてそう出来たのか。

困難の中でも、神様は私たち、ご自身の民と共におられます。

共におられるのでどこに神様に植えられても栄えることが出来ます。神様の民はどこでも花を咲かせられます。

奴隷であっても栄えることが出来るとヨセフが教えてくれます。むしろ、ヨセフにとどまらずその後イスラエルの民全体がある時期エジプトで奴隷となっていた小さな部族の状態から、モーセに導かれて偉大な民となり栄えました。奴隷の状況からも栄えることが出来ます。

荒野でも、神の民は40年間さまよって、父祖が絶えていくのを目のあたりにしつつも、その父祖にはなかったような驚くべき信仰へと栄えてカナンの地を征していきます。神様の民は荒野でも栄えるのです。

神の民は捕囚の中でも栄えます。ダニエルは偶像礼拝の盛んなバビロンにあっても栄えました。エステルもペルシャで自分自身や周りの人のいのちの危険にあっても栄えました。

瓦礫の中でも、ゼルバベル、エズラ、ネヘミヤのように栄えることが出来ます。

世界各地に散らされても神の民は栄えます。一国が滅亡の時に生き残った例はありません。バビロンが荒廃したあと名前が登場しません。

けれどもイスラエルが荒廃して、国が滅びましたがその民は各地に散らばりました。でもその先々で生き残り栄えたのです。数千年そのように生きました。今日、ユダヤ人と言うとあらゆる地に生きています。2000年の後、イスラエルが再び建国され、そこに帰還する人が世界中に居ました。

それは容易だったからなのでしょうか?いいえ、そんなことはなく、ほぼすべて散った先の人から迫害を受けました。まさにポティファルの妻がヨセフを裏切ったように。

彼女がヨセフを悩ませたようにイスラエルの民の散った先で人々は彼らを苦しめました。

どの時代も人々はユダヤ人に関する嘘をひろめて、今日もそうしています。ポティファルの妻がヨセフのことでうそをついたのでヨセフの主人は彼に敵対しました。

人々は、ポティファルの妻のようにユダヤ人を破滅させようとします。牢屋におくってやる、困らせてやる・・・。

けれども神様がご自身の民と共におられたので構いませんでした。どこに彼らを植えられても、またそれが困難や争いの中であっても彼らは栄えました。移り住んでいった土地でも栄えたのでした。

詩篇 1篇3節

"その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。"

それは彼らが困難に備えたからでも、状況で有利であったからでもありません。神様がご自身の民と共におられたからです。栄えるのに必要な物事すべてを、共にいて授けてくださいます。私たちが花咲かせ栄えるために。

皆さんも職場や家庭生活が荒野のように思えることがあると思います。 実際水をもってきてくれる人もいないし自分が枯渇していっているのかもしれません。でも、神様の民の皆さんはその状況に水をもたらすのです。

ヨハネの福音書 7章37~38節"

"さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」"

イエス様が私たちと共におられますから置かれている状況に水を求める必要はありません。あるに越したことはないけれども必要ないのです。渇いているなら私たちは渇きをもってご自身のもといくのだと言われます。そして生ける水をいただくと。

困難のただなかで満ち溢れていく

私たちが神様に信頼して、渇きを満たされるとそこからさらに私たちの心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになると書かれています。その状況で私たちが水の源となると。枯渇したような居場所が私たちのいることにより恵まれるということです。 そこの人々も潤わされて、祝福を受けるのです。

今日の箇所で、ヨセフも神様に植えられた場所で栄えたことが見てとれます。困難でも、潤わされ強く育っていきます。成功をしていくヨセフによってポティファルも祝福を受けます。ポティファルの家全体がヨセフのおかげで祝福されます。ヨセフを信頼したので自分の食べるもの以外の判断をヨセフに任せたほどでした。

恵みが溢れ出ていく様子がわかりますね。困難の荒野に居ても、神様に向かって渇きを潤していただきます。するとその満たしが周りの人々にまで溢れ及んでいきます。ヨセフのいく先々でそのようになりました。

それはポティファルの家だけではありませんでした。この女性がヨセフを裏切ったことで牢獄に送られ、振り出しに戻ったようでしたが、ポティファルの家に居た時のように、神様は牢屋のなかでもヨセフと共におられました。

創世記 39章21節

"しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。"

ヨセフは奴隷でいるよりずっとひどい牢屋に行きますが、神様はたゆまぬ愛を彼に示されて、必要を満たされました。渇いたところでもヨセフは栄えて成功して、監獄の長の好意も得ました。そしてついにその場所でリーダーになりヨセフが頼られるようになりました。栄えて、牢獄に居ても花を咲かせました。

また、ここでも恵みが溢れていきます。監獄の護衛はポティファル同様にヨセフのおかげで祝福を受けました。ヨセフの判断に信頼しました。彼が頼りになるのでいろいろ心配して調べなくてもよかったのです。彼らにとってヨセフは何という恵みだったことでしょう。

植えられたのが牢獄であっても栄えるなんて、驚くべきことです。それ自体信じられませんが、恵みが自分たちの周りに溢れていくことがそれ以上にすばらしいです。置かれた牢獄をも祝福するなんて。

例え:

他にも投獄された間に栄えた人がいました。使徒たち、とくにパウロを考えてください。本当に幾度も投獄されたけれども枯れ果てるのではなく栄えました。どんな境遇でも栄えられるとパウロはいいます:

ピリピ人への手紙 4章11~13節

"乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。 私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。"

これは本当に水のありかをパウロがわかっていたように思わせます。何が起こっていようときっと大丈夫だと。牢獄においてもパウロは無事でした。そればかりか、パウロは牢屋で栄えただけでなく、恵みが満ち溢れてゆきました。

どういうことでしょう。彼が祝福したのは他の囚人?護衛でしょうか。それも本当でした。がそれ以上にパウロの牢獄に居た時期の祝福はそのずっと後の私たちまで満ち溢れています。新約聖書の大半がまさにこの時期の祝福です。神様がパウロと共におられたからパウロは神様のもとに行き必要を満たされました。そしてパウロ自身が後の世代のキリスト者の水の源となった。ヨセフと同様にすべてそれが牢獄にいる間になされました。

神様はあなたをどこに植えられましたか?

さて、神様はあなたをどんな場所に植えられていますか?

私たち一人ひとりが様々な人生を歩んでいます。職場環境もそれぞれ違います。家庭生活も少しずつ違うでしょう。

でも私が確信できるのは、現在それぞれが日本に植えられていることです。

異なる経緯でここに今いますが、共にこの土地に置かれていますね。

日本は最善な土地かというと、物質的にはそう言えるでしょう。私たち多くの出身地よりも清潔で安全です。水も清潔です。

例え:

私の故郷はアメリカカリフォルニア州のソノラです、水道水は決まって塩素の味で薄めたプールの水のようです。レストランでもその水を出されるのでひょっとするとその味をごまかすためにコーヒーやソーダ、紅茶をたくさん飲むのかも知れません。

それで、私には東京に暮らして浄水器の必要な人の気持ちがわかりません。東京の水道水はどこよりもおいしいのです。トイレも道もきれいで、率直にどこよりも安全ですよね。子供だけで安全に道を歩いたり電車に乗れます。私の故郷では考えられません。盗まれる心配がないので財布やパスポートをなくしたら大抵誰かが警察に届けてくれて、無事見つかります。信じられないことです。

宅配スタッフも食事をレストランの外においたままでも取っていく人がいません。このそばにある花屋さんのそとにも植木が昼夜出しっぱなしですが誰も手を触れません。値札までついていて1万円とか1万5千円します。こんな安全な場所があるかと思うくらいです。

ですから日本とは物質的には良い土壌です。でも霊的には異なりますよね・・。

沈黙、と言う映画を観たことがあるでしょうか。教会への迫害の激しかった時代に日本にやってきた司祭たちの話です。クリスチャンを捕える役目の役人によって一人が命を落とし、他の司祭が捕まります。司祭を破滅させようとこの役人がはたらきかけます。日本でのキリスト教の布教には意味がないと、「何も沼では育たないのだ」、と言い続けてあざ笑います。

認めたくないけれども植えられた土地が、沼とまでいかなくても、何かおかしい気のすることもあります。うまく育たずほかの場所よりも困難だらけに思えることもあります。

そういう状況で落胆してしまうことは多いですね。植えられた場所に対してガッカリして逃げ出したくなることがあります。フェンスの向こう側、青い隣の芝の別の良い土壌を求めて。容易く成長できてもっと楽そうな場所へ。

でも、これを思い出してください。神様が皆さんを植えた時、過ちはおかしていません。ヨセフがエジプトに連れていかれたのも、ポティファルの家に行ったことも間違えではなかった。彼はパロの城の護衛の長だったため、送られた牢屋も王の牢であって一般民の送られる牢ではありませんでした。ヨセフが王の管理していた囚人の牢に送られたのも間違いではなかったのです。そこで同じく牢に送られていた王の給仕役の人の見た夢について聞くことになります。私たちが知っているように本人は神様のヨセフに用意された目的に歩を進めていることにまだ気づきません。好むような土壌に植えられてなかろうとも神様の目的によってそれぞれの場所に植えられます。

そして、いま日本に置かれている私たち皆に対して目的があります。

実際にこの国がどんな土壌か、と言うのは重要な問題ではありません。ヨセフと同じく、私たちは神様の民です。十字架でなされたすばらしい御業で、私たちは神の民に、アブラハムの子孫に接ぎ木されました。ヨセフと同じように、神様が私たちとともにいてくださいます。神様から、土壌にない、必要なものをいただくことが出来ます。

しっかり水を吸うこともできて満たされます。そして花を咲かせ栄えることができ、恵みが満ち溢れていきます。

イエス様のもとに行くと置かれた土地に恵みが溢れて波及します。この場所の霊的な状態に影響があります。日本において恵みが目撃されます。私は神様ではないので、その溢れ出る恵みの時期は わからないですがそのようになるのです。その間、この土地で私たちは神の民であって神様が共にいてくださるので、栄えることが出来るのです。

終わりに

ヨセフがエジプトに送られた時、神様は共におられました。

ポティファルの家におかれたときも神様は共におられました。

投獄されたときにも神様は共におられました。

ヨセフはどこに行っても、繁栄して周りの人の祝福となりました。それは神様が彼と共におられたからでした。

神様はあなたと共におられます。

共におられて植えられた土壌に足りないものすべて、神様がお持ちです。だから神様のもとにいきましょう。朝に、今週のいつでも。この土地で足りないものをたっぷり神様からいただいて吸収しましょう。神様の御手によって育って開花しましょう。

それで皆さんは今いる土地を祝福することになります。

アーメン




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