Japanese Translation: Genesis 4 (Translation by Yumi Takeuchi)

Updated: Nov 11, 2020

2020・6・14 ホライズンチャペル世田谷 英語礼拝メッセージ (アレックス・ロビンソン) 「悔い改めること」 創世記4章

今日も創世記の話を続けよう。今日は人類初めの兄弟と殺 人に関してみてみようと思う。また、私たちには常に選択 する力が与えられていることを学びたいと思う。悔い改め る選択。神に立ち返る選択。または怒る選択。反抗する選 択。 そして、私たちがどんな過ちを犯したとしても、立ち返る 機会が常に与えられていること。そして、神の哀れみがそ こで待っていることを学ぼうと思う。

人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで 言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。彼女は また、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カ インは土を耕す者となった。日がたって、カインは地の産物を 持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのう いごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物と を顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかっ たので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、 なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔 をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでした ら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めま すが、あなたはそれを治めなければなりません」。カインは弟 アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたと き、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。主はカ インに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。

カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょう か」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの 弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたは のろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が 口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あな たが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結 びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。カイン は主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。

あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。 わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりませ ん。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。 主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカイ ンを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカイ ンを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼 に一つのしるしをつけられた。カインは主の前を去って、エデ ンの東、ノドの地に住んだ。カインはその妻を知った。

彼女はみごもってエノクを産んだ。カインは町を建て、その 町の名をその子の名にしたがって、エノクと名づけた。エノ クにはイラデが生れた。イラデの子はメホヤエル、メホヤエ ルの子はメトサエル、メトサエルの子はレメクである。レメ クはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダといい、ひと りの名はチラといった。アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に 住んで、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバル といった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった。

チラもまたトバルカインを産んだ。彼は青銅や鉄のすべて の刃物を鍛える者となった。トバルカインの妹をナアマと いった。レメクはその妻たちに言った、「アダとチラよ、 わたしの声を聞け、レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳 を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける 打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復 讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」。アダ ムはまたその妻を知った。

彼女は男の子を産み、その名をセツと名づけて言った、「カ インがアベルを殺したので、神はアベルの代りに、ひとりの子 をわたしに授けられました」。セツにもまた男の子が生れ た。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名 を呼び始めた。 私は主によって男子を得た。 では人類初の兄弟の話を見てみよう。カインとアベルである。 この二人に対する両親の接し方が違うことに気が付く。

長男はカインで、生まれた時にその名前についての説明があ る。それはいい名前で、「私は得た」または「さあ、生まれ た」と言うような意味だ。これは、もしかしたら彼が長男 で、当時は長男は最も敬われた存在だったからかもしれな い。そして、たいていは両親から最も多くの祝福と財産を得 られたのだ。または、エバが彼こそが約束された者だと思っ たからかもしれない。先週、神が「エバの子孫がヘビの頭を 砕く。」という予言を与えたことを学んだばかりだ。

サタンを負かすというものだ。もしかしたら、エバはカイ ンにそういう期待を抱いていたかもしれない。だから彼の 名前は「さあ、生まれた」「主から約束された救い主を与 えられた。」というものだった。 しかし、カインはイエスではなく、救い主でもない。 次に次男が生まれ、エバは彼の名をアベルと名付けた。彼 が生まれた時には喜びは表現されていない。名前の説明さ えない。ただ、与えられたというだけだ。

そして、その名前の意味はカインの時とはかなり違っている。ア ベルとは、「空っぽ」と言う意味だ。これは、彼が次男だからか もしれない。当時二番目に生まれる子はあまり重要視されなかっ た。 しかし、またこれは失望の表れとも考えられる。彼女はカインが 約束されていた救い主だと思っていたが、そうでないことが判明 しその失望感から、次の子にはひどい名前を付けたのかもしれな い。「空っぽ」。息子への期待はもうゼロだということだ。

誰かに救い主としての役割を期待するとき、必ずこのような絶 望を感じるものだ。 個人的に、私たちは将来の妻や夫に大きな期待を持つものだ。 まるで救い主であるかのように。「私は今は幸せではないが、 結婚さえしたら幸せになれる。夫か妻が私をこの不幸から救い 出してくれる。今は寂しいが、結婚さえしたらもう寂しくなく なるだろう。夫か妻が救ってくれるだろう。」しかし、夫や妻 はそれらの必要を決して満たすことは出来ないのだ。

あなたがその結婚そのものにあなたの問題を持ち込むことに なるのだから。不幸ならば、その不幸を結婚にもたらし、寂 しければ、夫も妻もその寂しさを埋めることは出来ないの だ。それは、そうするように努力しないという意味ではな い。もちろん、互いに幸せにしようとするし、むなしさを埋 めようともする。しかし、究極的にはそれは人にはできない ことなのだ。相手に求めても無理なことであり、救い主の役 割は、イエスご自身によってのみ満たされることなのだ。

その期待をイエス以外の人に求めても、必ず失望することに なる。いつもむなしさを感じる。なぜなら、夫や妻には決し てできないことを期待することになるのだから。 その失望の中でできる選択がある。人に期待して、それが外 れた時、二つの選択の余地がある。 期待が応えられず、自分が間違っていることが分かった時、 それを神が与えてくれたチャンスだと見ることが出来る。そ の考えを修正する機会を与えてくれたと考えるのだ。

神と相手に謝り、イエスの元へ行き、イエスご自身に救いを求 めるのだ。これが一つの選択肢である。 または、自分を救ってくれない相手に腹を立て、誰か他の救い 主を探すという選択もある。これは、多くの人がしていること だ。「私は不幸だった。それで結婚したけどまだ不幸だ。これ は、相手のせいだ。」彼を恨む。もし、彼が私を幸せにできな いなら、子どもが出来れば幸せになれるだろう。視点をかえ、 子どもが救い主になるという期待を抱く。エバと一緒だ。

そして、子どもが生まれ、彼らはもちろん主にとって素晴らしく 祝福であるが、彼らもあなたを救うことは出来ない。子供を見れ ば微笑みが湧くが、いろいろな試みも生まれてくる。 例話:何か月もの間、毎晩あと30分起きていようと努力し続ける が、結局できないほど疲れ切るものだ。何の解決にもならない。 心理的な格闘のようなのだ。 子どもたちが救いにはならない。それはもともと無理なことだ。 そのことに気づいたら、次はどうするか。

ここでも、同じような選択が出来る。このことをチャンスだと とらえ、神と子供たちに謝ることだ。子供に謝る?そうだ。こ れは人間関係のためにとても健全で、将来大人になった時に、 謝るということを教えるためにとてもいいと思う。その謝るこ との中で、真の救いへと近づくことが出来るのだ。 または、彼らに腹を立て、恨み、そのまま生活を続けるという 選択もある。もし、子どもが救いにならないのなら、家が救い かもしれない。もし家でないなら、仕事が救いになるかも。

もし、仕事でもないなら、もしかしたら間違った人と結婚し てしまったのかも。別の人と結婚しなくては。このように、 さまざまなものに救いを求め続けていくが、結局はむなしさ だけが残るものだ。その過程において、あなたの心の中は許 せない思いが積もりに積もり、苦しみだけが残るのだ。 あなたを救い、満たしてくれるのはただお一人しかいない。 その渇きを止めるだけでなく、決して涸れない生ける水の川 をあなたに与えてくれる方はたった一人しかいないのだ。

それが、イエスキリストなのだ。彼こそが救い主で、あなた は二度とむなしくなることはないのである。そして、悔い改 めて彼に立ち返るには決して遅いことはない。今までどんな に遠回りをしてきたとしても、常にチャンスはあるのだ。心 の中に許せない思いをどんなに積み上げてきたとしても、立 ち返るチャンスは常にある。私たちには常に選択する自由が ある。今日が、イエスを選択する日なのだ。今日こそが許す ことを決断し、過去の怒りを手放し、自由になる日である。

今まで探し続けてきたもの、救い主を発見し、イエスキリストに あって、今日それを手に入れる決断をすることが出来る。今日、生 き方を変え、方向転換をし、イエスキリストの恵みによって、新し い選択をしよう。 カインとその捧げものには目を留められなかった。 では、読み進めていこう。カインは土を耕すものとなったとある。 彼は農夫だ。それはおそらく彼が長男だったからかもしれない。家 族の土地を耕す責任が与えられたのだろう。

アベルは羊を飼うものとなった。それはおそらく彼が年下だっ たからであろう。羊を飼うことは大抵はあまり重要な仕事では なく、一番年下の者がやる仕事だったのだ。サムエルが次に王 に油を注ぐ話で、エッサイのすべての息子たちに会った後、誰 一人王としてふさわしくなく、彼が他に兄弟がいないのかと聞 いた時、エッサイが「一番若いのがいますが、羊を飼って外に います。」と言った。このように、羊飼いは大抵、末っ子に与 えられる仕事だった。劣っている仕事なのだ。

さて、主に捧げものをする時になり、カインは主の産物を捧 げた。彼が育てたものの中から、捧げたのだ。 また、アベルも捧げものをした。羊の群れの中から肥えた初 子を持ってきた。そしてこの二つの捧げものに対して、主はア ベルとその捧げものに目を留められたが、カインとその捧げ ものには目を留められなかったとある。 なぜこのようなことが起きたのかついては、様々な説があ る。

ある人は、アベルは羊を捧げたが、罪の贖いには血がなけれ ばいけないからだという。地の産物ではいけないのだと。 しかし、この捧げものが罪のための捧げものだと言っている ところはどこにもない。ただ、捧げものと言っているだけで あって、レビ記では神に受け入れられる穀物の捧げものは確 かにあったのだ。だから、はっきり言ってこれは、捧げもの の種類の問題ではないと思う。それよりも、その捧げものに 込められた心の問題だと思われる。

へブル書にはっきりと書かれている。 信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神に ささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え 物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今 もなお語っている。(へブル11:4) ここでわかるように、これは信仰の問題なのだ。二人の違い は、その捧げものを捧げた時の心の状態の違いだったのだ。ま た、捧げものの説明にもその心の表れを見ることが出来る。

アベルは彼の群れの中の初子を持ってきたとある。初めて生ま れたものを主に捧げた。それには信仰が必要だった。彼は「今 月はどのようになるか様子を見よう。それから残ったものの中 から、主に捧げよう。」とは言わなかった。「あなたが必要を 備えてくれることは知っています。だから、まずあなたにお捧 げします。」という信仰があったのだ。アベルの心には十一献 金の心を感じることが出来る。その信仰があった。ところが、 カインの捧げものの記述にはそのようなものが見られない。

それが、初なりのものであったとは言っていない。 また、アベルは主に肥えた羊を持ってきたと書いてある。動物 の脂肪は尊ばれ、高級な動物だと考えられていた。彼は初子 を持ってきただけでなく、最高の羊を捧げたのだ。最も高級 なものを神に捧げた。そこには信仰が現れている。 私に関してはどうだろう。私は自分が一番いいところを取り たいと思っている。しかし神はそうではなく、神が一番のも のを受け、その後私の必要をすべて満たすとおっしゃるのだ。

一番いいものを捧げても、まだ多くの良いものが残っていると おっしゃるのだ。それが信仰だ。 カインの捧げものの説明にはこのようなものはなく、それが彼 の最高の産物だったとは書いていない。 つまり、アベルの信仰による捧げものに対して、カインの捧げ ものには信仰がないことがあらわになった。長男であり尊ばれ るべき兄が弟によって、本当の姿が明らかにされ、屈辱を受け たのだ。さて、このような状況で、選択することが可能だ。

カインが神に与えられた謙遜になるチャンスだった。彼自身の 信仰の弱さを認め、神との関係を深め成長するチャンス、悔い 改めるチャンスでもあった。しかし、カインは別の方向に向 かってしまった。腹を立てることを選んだのだ。この状況には 恥をかくという要素がある。結局、彼の信仰の弱さを指摘する のに用いられたのが彼の弟だった。彼自身より劣っていると思 われていた弟だ。カインは尊ばれ、アベルは嫌われていた。カ インは大きな責任があり、大事な仕事があった。

それに対し弟は大した仕事をしていなかった。けれどもその弟 の方が兄よりも強い信仰があることが明らかにされたのだ。 神が私たちに何かを教える時に用いる人々は興味深い。多くの 場合、その人々とは、私たちが予想もしないような人だった り、教えることなんてできないと思う人々だ。 例話:私の子供たちは、私が知っている誰よりも許しというこ とを教えてくれる。私は何度彼らを傷つけたことか。何度父親 として足りない者だっか。

しかし、私が彼らに許しを請うとき、彼らは完全に許してくれ る。 を恨むことなく、心の底から許してくれている。子供の許し は驚くべきことだ。私が彼らに教えていると思っている時、常 に私自身が彼らから本当に多くのことを学んでいるのだ。 子どもに教えられるとは本当に驚くべきことだ。 何かを学ぶために、自分より年下の弟が用いられるというのも 驚くべきことだ。

しかし、カインは心を開かなかった。そのチャンスを拒絶し た。怒ることを選び取ったのだ。 怒りは選択ではなく、コントロールできない感情だという人も いるかもしれない。私はそうは思わない。怒りは選択なのだ。 例話:もし、安倍首相があなたの家で食事をするとして、食事 中にうっかり水をこぼしたら、彼に怒りますか。頭にきて、彼 に叫ぶだろうか。たぶんそうはならないだろう。「阿部さん、 全く心配いりません。全然大丈夫です。」と言うだろう。

ところが、食事中に子供の一人がうっかりテーブル全体に水 をこぼしたら、普通は怒るだろう。「気をつけなさいと言っ たでしょ。何やってるの。」ーなぜか。怒りは選択だから だ。怒ることを選ぶことも、選ばないこともできるのだ。 カインは怒ることを選んだ。起きたことを通して、信仰を強 めたのではなく、いじけてしまったのだ。彼は顔を伏せた。 神が彼のところに来た時、同じようなことを尋ねた。「どう して怒るのか。どうして顔を伏せるのか。」と。

これは正しい選択ではない。カインにとってのいいチャンスな のだ。変わって、成長できるのだ。「もし、おまえが正しいの なら、受け入れられるのではないか。」この言葉は、彼を責め るための言葉ではなく、方向転換できるチャンスであり、お互 いの関係を立て直す良い機会なのだ。あなたを受け入れたいの だ。 「もし、正しくないなら罪は戸口で待ち伏せており、お前を求 める。」よく聞きなさい。この方向のまま行けば、罪の方に向 かうことになる。罪に支配されることになると言う意味だ。

「しかし、お前はそれを支配せねばならない。」 でも、その方向に進む必要はないんだよ、カイン。今ここ で、方向を変えることが出来るんだ。罪に支配されない道 を選ぶことが出来るんだ。実際、お前はそれに打ち勝つこ とが出来る。もっといい選択をしなさい。このことをチャ ンスと捉えなさい。悔い改め、成長することを選び取りな さい。他の方法を選んではならない。それは、罪があなた の人生を支配することになるのだから。

しかし、カインは悔い改めることなく、怒りと許さない心を選 び取ってしまった。そして、その後彼がどうなったかは明確であ る。神が言った通りのことが起きたのだ。罪が彼を支配し、弟 を殺すことになってしまった。世界で初めての殺人が起きた。 そして、神が彼のところに来て、質問をした。「お前の弟アベル は、どこにいるのか。何ということをしたのだ。」神は何が起 きたのかよく知っていた。これは神がご自分のために聞いた質 問ではなく、カインのためにした質問だ。

彼に罪の告白をし、悔い改めるチャンスを与えたのだ。正しい 選択をするチャンスだったが、彼は同じ選択をしてしまった。 「私は弟の番人でしょうか。」 再び、告白し、悔い改め、神に立ち返るチャンスを与えられた のに、カインは同じ選択をしてしまった。それで、彼には更な る呪いが与えられたのだ。彼が自分で選んだ道で、更に苦しみ が増したのだ。それは両親に与えられた呪いよりもさらに過 酷なものとなってしまった。

主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の 声が土の中からわたしに叫んでいます。 今あなたはのろわれて この地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、 あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕し ても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなた は地上の放浪者なるでしょう」。 (創世記4:10~12) そこでカインにほんの小さな立ち返る光が見えた。

この罰が与えられたとき、自分の怒りがどんな結果をもた らしたかに気付き、ついにカインは神に話しかけた。罪の 告白のようなものである。 カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれませ ん。 あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放され ましたわたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならね ばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺 すでしょう」 (創世記4:13~14)

カインは単に「私の罪は重すぎて負いきれません。」と言っ た。罪の結果が重すぎると言っている。怒りの結果が大きす ぎて、負いきれない。私の罪を負えないということだ。 これは、完璧な罪の告白だろうか。いいえ。完璧な悔い改め か。いいえ。しかし、これは真実な心だ。自分でしたことの 呪いが負いきれないという告白だ。私は殺されるだろう。心 からの告白でもある。 では、神の反応はどうだったか。

神は誰も彼を殺さないように、彼に一つの印を与えるというの だ。彼の告白に対して、哀れみの心を示したのだ。 この個所はいろいろな解釈が出来るが、私はこのように考え る。私は怒りによって、神から遠く離れてしまうかもしれな い。悔い改めない心に支配され、はるか遠くに落ち込んでしま うかもしれないが、神にすべてを持っていけないほど遠くに 行ってしまうことはない。自分の間違いを神のところに持って いけないほど、遠く離れてしまうことはないということだ。

そして、それを持っていくときに、そこに神の哀れみを発見 し、恵みを見つけることができるのだ。自分の過ちの真っただ 中でも、何度もチャンスを逃しても、常に哀れみの御手があ る。 エバは子供に失望し、苦い思いを持った。そして、期待に応え てくれない子供に「空っぽ」と言う名前さえ付けた。 カインは弟によって、信仰の弱さを知らされ、悔い改めずに怒 りを選択した。

しかし、今日私たちはより良い選択をすることが出来る。きょ う、イエスキリストを選び取ることが出来るのだ。きょう、私 たちが過去に犯した間違いに対して恵みと哀れみを神の中に発 見することが出来るのだ。そして、それ以上にきょう神は私た ちにより良い道を示したいと願っておられるのだ。過去にして きたどの選択よりも素晴らしい選択をすることを願っておられ るのだ。そして、より素晴らしい将来へと私たちを導こうとし ておられる。あなたは何を選びますか。


アーメン




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