Japanese Translation: Genesis 9 (Translated by Yumi Takeuchi)

Updated: Nov 11, 2020

2020・7・19 ホライズンチャペル 世田谷 英語礼拝メッセージ 「人の弱さ」 創世記9章 アレックス・ロビンソン

弱さに直面した時あなたはどうしますか。今日も、今まで学 んできた信仰の人ノアが弱さの中にいる姿を学ぼうと思う。 この9章では私たちが弱さの中にいる時でも神は変わらない ことを知ろうと思う。私たちを造られたのは神だから、私た ちの弱さもご存知だ。更に、私たちの弱さを理解され、その 人間と新しい契約を結んでくれたのだ。それは、私たち人間 の力によるのではなく、神ご自身の力によってなされるもの だ。

そして、それはイエスキリストにおいてなされる新しい 契約を指し示すもので、人類の弱さを覆い、私たちに新 しい力を与えようとするものである。しかし、人間の弱 さをどう扱ったらいいのかと言う問題は残っている。そ の弱さのゆえに恥意識を持つべきだろうか。または、神 の働きの一部を担い、他者の弱さを共に負い、彼らを励 ますべきだろうか。

酒に酔って、裸になる まず今日は、ノアの物語の途中から始めようと思う。今までの ストーリーではノアはとても素晴らしい人物として描かれてい た。最初の記述も素晴らしいものだった。その時代、すべての 人が神に対する反抗心が大きく、その心に思うことは悪い事ば かりだったのだが、このノアだけは神と共に歩んだ。それで、 他のすべての人とは違っていた。彼は正しいことを考え、行う ことが出来た。その時代にあって欠点のない人だった。

神が箱舟の計画と洪水が来るという警告の言葉をもって彼のと ころへやってきた時、彼は並外れた信仰を働かせた。そして一 度も雨と言うものを経験したことがないこの人は、自分の人生 の100年以上を捧げて大きな船を造り、すべての清い動物の七 つがいと汚れた動物の一つがいを集めてそこに入れた。そして 最後には神の御手が動き扉を閉めるのを確かに目撃したのだ。 神が家族を救うのを目撃し、神の怒りによる信じがたいほどの 力を経験し、世界が洪水で全て流されるのを目撃した。

また、同時に神の風によって水が押し流されていくのを見て、そ の哀れみの大きさも体験した。そして先週は彼の忠実さを学ん だ。渇いた地面を見ても、ただ主の言葉を待ち望んだ。そしてつ いに箱舟を出るように言われた時、驚くような信仰の故に、彼が 最初にしたことは家族の食糧を減らしてでもすべての清い動物の いくつかを礼拝するために捧げたということだ。そして、ノアの 礼拝と信仰がいかに神の心にかなったかを学んだ。

なんという素晴らしい話、なんという素晴らしい人生、なんと いう素晴らしい信仰!霊的なスーパーマンである。英雄だ! そこでこの話が終わればいいのだが・・・勝利、栄誉、威厳の ある素晴らしい人物として終われば、ハッピーエンディングだ。 しかし、このストーリーはそこで終わらなかった。洪水の後す べてのことが日常に戻った。ノアも信仰のチャレンジを終え、 落ち着いた。19節に、「土の男」となったとある。農夫にな り、彼は葡萄畑を選び、ワインを造るようになったとある。

ノアはお酒にはまるようになり、21節にはある夜彼は酔っ ぱらっていたとある。そのあと更に悲惨なことが起きる。 彼は裸になるのだが、聖書にその理由は記されていない。 ある聖書学者は、これは酔っぱらっている間の性的な行い を指しているという。理由がなかったとは考えられない。 「裸をあらわにする」とは、レビ記にも出てきてそれは常 に性的行いをあらわすものである。

その理由はわからないが、酔うということは人の判断を鈍ら せ、自らを守る力を失わせるものだということは理解できる。 だから、率直にいうと、ノアがしたことはあらゆる可能性があ ると思われる。ただ知りうることは、私たちがこれまで学んで きた信仰の英雄であるノアが今や酔っぱらって裸になり床に寝 転がっているということだ。これはかなりショッキングな事柄 だ。以前見てきたのとは全く逆の光景を見ることになる。

ノアの弱さがあからさまになり、それは受け入れがたいことだ。し かし、それは白黒のデッサンのようにはっきりと存在するのだ。問 題は私たちはそれをどう見るかということだ。隠れていたものが突 然目の前に現れ、人間の弱さに直面した時どうするのか。 もちろん、言い訳を考えそのすべての重要性を小さく見積もること は出来る。「そう。ここで初めてワインの話が出てきたから、きっ と新しいことが起き、ノアは自分でしていることがわからなかった のだ。お酒に負けてしまっただけだ。」と。

それは、ちょうど自分自身や他人の弱さを見つけると、それを大 したことがないように軽く考え、言い訳をするのと同じように。 「ああ、その日はついてない日だった。」「本気で言った訳では ない。」「気分が良くなって言っちゃっただけだよ。」など。 しかし、これでは何も解決しない。その状況を拒み受け入れない ことになる。そのような仮説を考えることは出来ないと思う。こ の時点までにワインが存在しなかったとは信じがたいことだ。

ノアが何も知らなかったと主張する理由はどこにもない。 または、このことに関して強い態度を持ち、ノアを裁くこともで きる。全くひどいことだ!私は絶対そんなことはしない!なんと 恥ずかしい!今までのことを経験したにも関わらずこんな終わり 方をするなんて、ノアは恥を知るべきだ! しかし、この態度は自分のプライドを高めるだけで聖書はそれを 目的としている訳ではない。この事件を軽く扱ったり無視したり 裁いたりするのではなく、きちんと直面し理解すべきだと思う。

ヤコブは、聖書は私たちにとって鏡のようなものだと言ってい る。つまり、聖書を読む時、自分自身を映しているというの だ。自分の心が見える。聖書の中の人々について読む時、自分 は彼らよりもいい人間だと思うのではなく、自分自身はどうで あるかと問うべきだ。 ノアの話を読む際にも、私たちが考えるべきことは自分自身の ことなのだ。私たちがノアなのである。霊的な勝利を経験した かと思えば、次の瞬間に失敗して床に倒れているような者だ。

例話:朝起きて、デボーションを持ち神に語られ、妻にも愛さ れ親としての正しい決断をし、子どもたちにも祝福を与え、職 場でもキリストの香りを放ち、すべてがうまくいくような日があ る。しかし、その翌日は大混乱に陥ることもあるのだ。 デボーションをてもほとんど何も語られることがなく、配偶者 と喧嘩をし、子どもたちに最悪のことを言ってしまい、職場でも 失敗して、全く証しにならない。そのことにショックを受ける。 昨日は素晴らしく順調だったのに、何で今日はこうなるのか。

ノアの今日の個所を読んでショックを受けるのと同じような ことである。また、この個所は私たちにもう一つの疑問を投 げかけていると思う。なぜそんなにショックを感じるのか。 人間の弱さまた自分自身の弱さに直面した時なぜそんなに ショックを受け責めを感じるのだろうか。 と言うのは、この個所にはショックと言う感情は少しも感じ られない。21節は非常に簡潔で簡素である。事実を語ってい るだけだ。まるで天気の話でもしているかのようだ。

また、このことでノアを責めているような感じも受けない。彼の息 子ハムを責めてはいるが、それは後で語ろうと思う。しかし、ノア のことは責めてはいない。聖書のある個所では、誰かがあることを して、「それは主を怒らせた」と言うところが出てくるが、ここに はそのような記述はない。何の解釈も責めも書かれていないのだ。 それはまた同時に私たちにとっては疑問でもある。 私たちが己の弱さにショックを受けても、神は受けないのである。 ノアの弱さは神にとって、別に驚くべきことではなかったのだ。

実際、先週のことを思い出すと、神はノアが船を降りるとすぐに ノアに語った。神はノアのささげた礼拝の素晴しい香りをかぎ、 ノア自身も信仰の高みにいる時に、「現実は何も変わってはいな い、人の心も変わってはいない。」と語ったのだ。「人の心は若 い時から邪悪なものだ。」と。 私たちはよく自分の弱さを見て責めを感じる。神を落胆させてし まったと思うのだ。落胆は驚きを伴う。相手がこういう人だと 思っていたのにそうではなかったから驚くということだ。

それが落胆と言うもので、神はあなたの弱さを見て驚くことはな い。神はあなたの弱さをすでに知っておられるから。 父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれ まれる。主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりである ことを覚えていられるからである。詩篇103:13~14 これはとても美しくホッとする言葉である。神はあなたの造られ たさまを知り、ちりであることを覚えておられる。神はあなたを 造られたのだから、あなたの弱さにショックを受けることはな い。

我々のことをよくご存知なのだ。そして、私たちに現実的 ではないような期待を持つこともされない。実は神の私た ちへの期待は私達自身のものよりはるかに現実的なのだ。 なぜなら、私たちは自分自身を見てショックを受けるが、 神は私たちを造ったお方なのだから。造っただけでなく私 たちと共に更に1マイル歩いていくださり、すぐ横でその弱 さを感じてくださる方なのだ。

この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないよう なかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについ て、わしたちと同じように試錬に会われたのである。 (へブル書4:15) つまり、私たちを造った上、神なるお方が肉体の形を取り、人が どんなものであるか経験するために私たちと同じようにこの地上 で生活してくださったのである。全能なる方がすべての物を捨て て、私たちと同じ弱さを持つものとなってくださったのだ。

神はあなたのことをご存知だ。あなたの弱さもご存知だ。あなた の弱さを驚くような方ではないのだから、あなたも自分の弱さを 知って驚く必要はない。または他人の弱さを見て驚く必要もな い。なぜなら、私たちは自分に関して非現実的な期待を持つもの だけれど、他人に対しては更にそういう期待をしがちである。 そして、他人の弱さに関してショックを受けることが結構多いも のだ。そして、正直に言うと他人の弱さに対して非常に敵意を感 じることがある。

しかし、神は私たちの弱さに敵意を持つことはない。それ なら、私たちが他人の弱さに対して敵意を持つ権利がある だろうか。決してないのだ。私たち人間は皆弱い者だ。神 はそのことをご存知で、私たちもそのことを知るべきだ。 しかし、今日の個所はそこで終わらない。神は私たちの弱 さをご存知だが、彼の応答は更にうるわしいものだ。

私はあなたと契約を結ぶ 神は最初から人間の心に何があるかをよく知っていた。その弱さ もよくご存じの上で、契約を結ばれたのだ。 聖書には2種類の契約がある。義務的なものと、約束的なものであ る。義務的なものは、普通の契約と同じで、もしこれをするなら 私はこれをするというものだ。あなたがそれをしないなら、私も しない。たとえば、モーセを通してイスラエルとの契約がなさ れ、もし律法に従うなら、あなたを祝福しようというものだっ た。

私に反抗するなら、あなたを呪うという。祝福と呪いは完全 にその契約を守るか守らないかによるものである。自分の力 による。それは公平で正しい契約ではあるが、人間はそれを 守ることが出来なかったので、失敗に終わった。恐らく、神 はそれを用いて私たちが自分の力では得られないことを示そ うとされたのだろう。 しかし、契約にはもう一種類のものがある。今日の個所では この契約が初めてなされた例である。

それは約束による契約であり、これは普通の契約とは異な り、私たちの側の行動とは全く関係のないものである。この 契約では、神はノアにもし私の戒めを守ったら二度とこの世 界に洪水を起こさないと言ったのではない。あなたが何をし ようと、神が一方的にあなたに約束してくれたのだ。「私は 二度と洪水を起こさない。」私が約束をし、私自身がその証 人だ。私達人間の力や能力によるのではなく神ご自身の力に よってその契約は遂行されるものなのだ。

9節にはっきりと、「わたしはあなたがた及びあなたがたの後 の子孫と契約を立てる。」と書いてある。 これは初めての約束による契約であり、最後ではない。と言う のは、もう一つの約束による契約があるからだ。それは、イエ スキリストの新しい契約だ。恵みの契約であり、私たちの力や 能力によらない契約だ。そして、すべての弱さを持ったままで も入ることのできる契約だ。それは自分の行いによるのではな くイエスキリストの行いによってなされた契約である。

それゆえ、決して無効になることはなく必ず行われるもの だ。私たちの弱さには何の関係もないからだ。すべてのこと がダメになってもそこだけには希望を持てる土台である。ど んなに弱くても私はキリストイエスの中にいるのだ。どんな に心が自分を責めても、イエスが十字架でそれを取り除いて くれたのだ。私の恥も責めもすべてを覆ってくれた。それこ そが私の弱さに対する神の応答だ。弱さをあらわにするので はなく、イエスの血によってその責めを覆ってくださった。

それだけでなく、この契約によって私は聖霊を受けること が出来るものとされた。弱いけれども力の霊を与えられ た。彼は私の弱さの責めを覆ってくださっただけでなく、 私を引き挙げてくださるのだ。 人間の弱さに対する神の応答はなんと麗しいのだろう。私 たちを責め立てる権利をお持ちなのに、神はそれを覆って くださることを選択される。

弱さの中にいる私たちをそのまま床の上に放置する権利をお持 ちなのに、聖霊の力によって私たちを引き挙げてくださる。 私たちが仕えている神はそういうお方だ。以前にも語ったよう に、神は近づくことのできるお方だ。弱い時にそばに行くこと が出来るお方だ。私たちの弱さを理解してくださるだけでな く、その恥を覆い隠し、そこから引き揚げてくださるのだ。 人の弱さを見た時私たちはどうするべきか。自分の弱さをどう すればいいのか。

ただ落ち込んでいるのではなく神のところにその弱さを 持っていくことほど素晴らしいことがあるだろうか。神か らそれを隠す必要はない。神は私たちがちりであることを すでにご存知だ。造られたさまをご存知だ。私たちのどん な状態も神にショックを与えることはない。彼はすべての ことをご存知で、私たちの責めを覆い、聖霊によって強め ようとしておられるのだ。神のもとに弱さを持っていこ う。神がそれをどうなさるのかわかったのだから。

最後にノアの息子たちがノアの弱さに対してどう対処したかを見 ていこう。2つの違った反応を見ることが出来る。 裸を覆った ノアの息子の一人が父親が酔っぱらって裸になり、地面に転がっ ているのを発見する。ここに、彼は父の裸を見たとある。ヘブル 語の見たと言う言葉はとても強い意味がある。彼は父親の裸を じっと凝視し、罪を犯したという意味である。その時ハムにはい くつかの選択肢があった。父を助けることもできたはずだ。

若くて強い男なのだから、父親をベッドに乗せることが出来 たはずだ。またせめて父に何かをかけてあげることが出来た はずだ。父親の威厳を守ることである。毛布か何かをかけれ ばよかった。 ハム しかし、ハムは父を助けることは何一つしなかった。毛布ひ とつかけてあげなかったのだ。それどころか、父の状態を見 せるために他の人を呼びに行ったのだ。

恐らく、父親に恥ずかしい思いをさせようとしたのだろう。彼は 走って行って二人の兄にノアのことを告げた。兄を呼びに行った ことで、なぜ彼の悪意を知ることが出来るだろうか。もしかした ら、ただ助けてもらおうと思っただけかもしれない。But... No.1 人に毛布を掛けてあげるのに助けはいらない。 No.2 ノアが目覚めた時の反応が記されている。「末の息子がし たことを知り」(24節)ノアは末の息子とその家系が呪われるこ とが妥当だと判断した。

もし、ハムが善意を持って兄を呼びに行ったのなら、こんな反応 はしなかったはずだ。 確かにハムは父を辱めようとしたのだ。この機会を用いて父をお としめようとしたのだ。父を傷つけ、兄たちの前で父を笑いもの にし、彼らと一緒になってノアを馬鹿にしようとしていた。 この態度は、私たちの多くが他者の弱さを見た時に感じてしまう 罪悪感でもあると思う。他の人にも同じことをされるのではない かと恐れるので、弱さを他人に知られることを恐れるのだ。

確かに、弱さと言うものは彼らを辱め傷つけるかっこうの機会で ある。その時点では簡単にできることだ。 しかし問題は、神が私たち自身の弱さに対してどうなされるかを 知った今、そうすることは神が喜ばれることだろうか。神が天と 地を動かし私たちの恥を覆い、責めを取り除いてくれたというの に、責めと恥を他者に与えるのはどうだろうか。 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御 子によって、この世が救われるためである。 (ヨハネ3:17)

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定めら れることがない。(ローマ8:1) 神が私たちの弱さを責めないことにされておられるが、私たち は神の言葉に従って行動すべきか、または神の言葉に逆らいハ ムと同じことをするべきだろうか。人の弱さを食い物にし、恥 を負わせ、裁き、それと闘うのだろうか。それは正に神の意志 と反対のことをすることになるのだ。それは神が私達神の子供 に望んでおられる姿ではない。ハムの後に続くのはやめよう。

そして、セムとヤぺテを見習おう。 セムとヤペテ セムとヤペテは同じような状況に置かれた。弟が走ってきて父 親の状況を伝えた時、恐らく弟は父のことを笑っていただろ う。そして、この二人も一緒になって父の弱さを笑って馬鹿に するという選択肢もあった。しかし、彼らは全く別の行動を とった。彼らは父の裸を見なかった。ハムのように人の弱さを 食い物にはせず、最善のことをしてノアを助けたいと思った。

父親を見ないように後ろ向きに歩いてテントに入り、父に覆い をかけてあげた。父が最も弱い時に、彼を助けたのだ。 確かに私たちの弱い時には更にやっつけられる最善の時でもあ る。しかし同時に神のわざに参与する最大の機会でもある。そ の恥を覆うことだ。何も見なかったかのようにそれを無視する べきだと言っているのではない。そうではなくハムがしたよう に人の恥をさらそうとしないということだ。個人的に対処する こと。みんなの前ではなく、相手に直接一人で関わることだ。

それだけでなく、相手と1対1になった時、お腹にパンチを与え、 やっつけようとするのではなく、彼らを助け引き揚げ、愛を持っ てその弱さを共に担おうとすることだ。 わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであっ て、自分だけを喜ばせることをしてはならない。(ローマ15: 1) あなたがたは弱ったを強くし、よろめくひざを健やかにせよ。 心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あ なたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。

神は来て、あなたがたを救われる」と。 (イザヤ35:3~4) 結:神は私たちの弱さを知ってショックを受ける方ではない。 私たもまたショックを受けるべきではない。神は愛と哀れみの 心を持って私たちの弱さを覆ってくださる。そして、私たちの恥 を覆い、私たちを強めてくださる。同じようにする機会が私たち にも与えられている。私たちも人の弱さを知る時、父なる神と同 じように哀れみの心を持ちたいものだ。愛を持って恥を覆い、弱 さの中にいるものを支え強める者となろう。 アーメン





4 views0 comments