Japanese Translation: Hebrews 11:30-32 (Message: Pastor Robinson / Translation: Ronald Akatwijuka)

ヘブライ人への手紙 11:30-32


購いの主を求める




始め: 本日は引続きヘブライ人への手紙から学び、信仰の章としてよく知られている11章についてみて行きます。これまでは11章をみながら信仰 について学んできました。信仰は、私たちの意思を実行できる魔法な力のようなものではなく、神様の良さを経験しながら、神様のご性質に信頼することをみて来ました。ご自身を求める人は報われると確信すること。しかし、先週は信じる人にはのような報いは一斉に与えられないことを見ました。そうでなく、神様に信じる人は約束された報いの第一歩に過ぎない部分を経験していることをみました。 アブラハムは自身から成立して行く国の始めの部分だけみていました。イエス様の弟子たちはイエス様が約束された御国の始め、成し遂げていく働きの始めの部分しかみていません。ですので、私たちも小さなスタートに落胆せず、むしろ、私たちの人生でカバーしきれないほど何らか大きなことの始めと正しく受け止めるべきです。そして、アブラハム、ヨゼフ、モーセは、小さな始めからできていくことについて見たことを学びました。成就するのは後だったにも関わらず、彼らはそれらを歓迎しました。 約束されたことが成就していくと信じて生きていました。アブラハムは神様がイサクから偉大な国を造られることを信じて、それはイサクを死人からよみがえらせて子孫を与えるかもしれないが、神様に信頼して息子を捧げようとしました。ヨセフとモーセはエジプトで王子としての恵まれた人生で満足せず、 神様の人として、旅人のように暮す方を選択したのです。その後成就する約束をみたからです。神様がご自身の民に約束したことを守ることをみました。より優れた国について見て、その国の一員となる方を選択したのです。


本日は引続き信仰を示した男と女についてみます。これまで信仰の模範としてあがってきた名簿は珍しくもなかったです。アブラハム、ヨセフ、モーセは挙げられて来て当然でした。私たちもその人たちに見習って真似したい存在です。聖書の中の英雄です。しかし、本日学んで行く箇所では驚かされるような名前があがってきます。信仰を示した英雄のリストに挙げられると想定できないような人たちになります。完璧でない人ばかりのリストになります。売春婦、嘘つき、反抗者、罪人ばかりのリストになります。このような人たちはアブラハム、モーセと同じリストにあがって来ているのです。彼らの名前が挙げられているのは、私たちが信仰についてより完全に学べるためです。それは、信じた人ではなく、信仰を置かれる方の方が差をつけるということです。


ヘブライ人への手紙 11:30-32を読む



ラハブ


ラハブという女性からみて行きます。


背景について少し振り返ると、イスラエルは40年ほど荒野の地の中で迷っていました。神様は約束の地の境界まで導いて来られていました。カデシュ バルネアという場所まで誘導されていたのです。 そして、約束の地に入る様彼らに呼ばれていました。それは第一歩でした。ステップ2と3の説明は、神様がされていなかったです。しかし、イスラエルの民はステップ1を無視していました。神様に命令されたように行わず、40年も周りながら迷っていました。入れる準備がようやくできた時、神様は再度ステップ1から彼らに誘導されました。再度カデシュ バルネアに誘導され、彼らに同じことを求めました。約束の地に入りなさい、その後のことはまた示すという趣旨のことでした。


そこで、ヨシュアの下で彼らは約束の地に入ることを誓いましたが、ヨルダン川はどのように渡るかわかっていなかったのです。イェリコをどのように倒すか、入った後どのように生活するかわからなかったが、取り敢えず約束の地に入ることだけ知っていたのです。


私たちは時には、何か行動をとる前に神様からそのことの終始を見せてほしいと考えます。神様に、「神よ、ここで何をするかまず見せて下さい。そうしたら私が従います」。しかし本当は、神様が事ごとの終始を私たちに明らかにされたら私たちは信じられないのです。イスラエルの民がヨルダンを渡る方法やイェリコの城壁を取壊す方法を信じられなかったと同じです。約束の地での戦争での勝利を信じられなかったように。もう一度言いますが、信仰は神の誠実さを経験するところから来るものです。 神様がすべて私たちに明らかにするのではありません。私たちにステップ1だけ与えられます。そして、ステップ1神様の誠実さを経験して行けば、ステップ2で信頼することができるようになります。イスラエルの民はヨルダン川を入った時水が両側に引いて彼らが乾燥地面を通行してから(この時の世代にとって初めてのことでした)、そのことを通して示された神様の誠実さを経験してからイェリコの城壁を倒せると信じたのです。


例: 私がアメリカから日本に来たとき、何もわかっていなかったのです。母と自分の

周りにいた人から散々言われました。日本にどれくらい滞在しますか?わかりません。生活費はどうするんですか?わかりません。日本語はどのように学びますか?わかりません。どんなミニストリーをしますか?わかりません。

というのは、もし来日前に整理しようとしていたらまず来日に至らなかったと思います。今日に至るまで同じようなことの答え合せしていると思います。そして神様がそのようなニーズに対して備えて下さった答えを見つけてくださったにしても、信じることができなかったのです。


しかし神様が日本に来る様示したので来日しました。そしてその後は至る所に神様が見て下さると信頼できることをきめ細かく教えて下さいました。


神様が私の目の前に全体像を見せてくれる日を待てません。そのようなことはなさらないからです。私にできることは、今日与えられた仕事を成し遂げること。今日与えられたステップ1の仕事。その他のことはその後に示して下さるのです。


約束の地に入る前はスパイを送りました。以前もスパイを送ったことはありましたが、今回のことは別の次元でした。以前は、彼らがその地に入ることを決断せずにスパイを送っていました。入るかどうかわからないが、まあ情報収集しましょうという趣旨でした。しかし今回は、入ることを決めていて、入るための情報収集を行っていたのです。


そこで、イェリコを中心に約束の地をみるために二人の男を送りました。この二人がイェリコにいる間にラハブという売春の女の家に宿っていました。


ラハブの職業をより良いイメージを持たせるようにいくつかの説が立てられてきました。というのは、ヘブライ語では売春婦の言葉は宿屋主という意味合いもあり、「彼女は宿屋さんだったんだ」と借るんじるような言い方もあります。しかし、新約聖書で使われる言葉は売春にしか使われないので彼女は売春婦と認めざるを得ないのです。


彼らがそこにいたことはその地の王まで伝わったので彼らを逮捕するために兵士を送ったのですが、ラハブは二人を天井の部分に隠して兵士に彼らは去っていたと嘘をついたのです。神様のスパイは売春婦に助けられました。


しかしラハブの人生でもっとも驚かされるのは、神様が彼女の恥ずかしい部分を使って彼らを守ったこかと思います。


彼女は売春婦でした。ですので、彼女の家には男が匿名で出入りしていたはずです。そのような家だったのでスパイが宿るのに適していたと言えます。神様はラハブについて最も恥ずかしい分

を使ってご自身の計画を成し遂げたのです。それまでの彼女の人生は正しいと認めていたのでしょうか?いいえ。それでも購いましたか?はい。


王の兵士の前で堂々と自分の行動を言うこともできた。強く、「あなた方には何も言わない・イスラエルの神に信じているから」と言うことも考えられます。しかし、彼女は私たちも恐怖状態の中でするような、嘘をつきました。


例:それほど難しい状況じゃなくても嘘をついてしまいます。歯医者からちゃんとフロスをしたか聞かれる時、していなかった時も「しています」と答えてしまいます。恥を指摘されるのが怖いのです。

なので、ラハブはスパイのことで嘘をつきました。恥ずかしいですが、真実です。神様は彼女に嘘つくことを命令しましたか?「いいえ」。神様は嘘を容認したのでしょうか?いいえ、十戒で嘘について定めたほど容認していません。彼女が別の方法でこの状況に対応できたのでしょうか?多分。わかりませんね。神様が彼女が嘘ついたことを通してスパイを守られたのでしょうか?そうです。彼女は恐怖の中で自分、そしてスパイを守るために嘘をついたのですが、そのことで彼らの命は助かったのです。


私たちは時には神様がどれだけ偉大な神か理解していません。私たちの過去で、現在かも知れない、の中で私たちの人生で恥ずかしい実態があると思います。私たちが隠すしかないと思うようなことがあります。とても恥ずかしくてそれらを通して神様が何か行動することを考えられないのです。ですので、ほとんどの時神様の前に持ってくることもしないのです。神様に対して私たちの視野がせまいからです。他の人と分かち合うこともできない、なぜなら私たちに恥ずかしいからです。私たちの過去、職場事情、家族事情、心の問題、これらすべて隠してしまいます。アダムのようにイチジク木の葉っぱで自らの裸を隠しています。



しかし神様は偉大な方です。私たちが恥にしか思えないことでも、神様はそう言ったものからも購って下さいます。


例えば病気についてですが。病気は私たちに恥を覚えさせます。特に今の時勢ではなおさらその特色があるのです。特に日本では病気になった人はメディアで強く批判されることも見られます。十分気をつけていなかったと指摘されます。そして自分が病気になった時は他人に迷惑と感じます。職場あるいは家庭で自分がやるべきことができない罪悪感。そしてさらに、共に暮す人たちにも病気を移してしまう危険性もあります。そして、さらに悪いのは、教会の中でさらに恥ずかしさを認めるような言動をする人もいます。神様から何らかの指摘なのでは?信仰に弱いからなのでは?病気について恥ずかしいオーラが本当にあります。


しかし、神様は病気を使うことがあるのでしょうか?はい。病気の中で神様が働かれることはあるのでしょうか?あります。


例: みなさんご存知のように、ここ一週間半くらいは私の家族は胃腸炎になってしまいました。神様の恵みで妻はならず済んだのですが、妻以外は全員なってしまいました。しかし、この病気の時に神様がどれだけ働いたかは本当に驚きます。子どもたちが自らの体調不良にも関わらず助け合う心を持っていました。最近、下二人はいつもけんかです。1歳の娘が歩き始めたので3歳のお姉さんのものを取ってしまうのです。それで3歳の娘から泣いて騒いで対立しています。しかし、今週は二人とも体調不良だった時、3歳の娘に大きな変化が表れました。妹のことを気にかけていたのです。ある時のエピソードですが、二人きりの状態に残された時、妻が部屋に戻ってきたら、お姉ちゃんが妹にバケツを持って、「もし気分わるかったらここに出して良いよ。私はバケツ持ってるから」と言っていました。それはしもべの心です。大人はそう言ってくれる人中々いないと思います。


神様は恥ずかしい状況からも購います。それらの中で、それらを通して神様が働きます。そのようなことが良いからなのではなく、神様だからできるのです。そして自らを求めるものに報いを与えます。


ラハブ歯完璧な人ではなかったのです。イェリコで最も優れた人ではなかったのです。彼女が最もピュアではなかったです。最も高貴な人ではなかったです。最も高貴でない人だったかも知れません。しかし、イェリコの中で加除のが唯一神様を求め望んでいたのです。その後に来る実態を正しく悟っていました。その後来る神の民の勝利を受け入れて行動したのです。そのことで、神様はご自身の意志の中で彼女のストーリーを変えてくれました。スパイを救って、彼女と彼女の家族も救ったのです。


彼女が住んでいた場所も考慮すると、彼女が救われたことがなおさら興味深いです。彼女は街の城壁のところに住んでいたのです。


なぜそのことをわかるかと言ったら、


[ヨシュア2:15] そこでラハブは綱をもって彼らを窓からつりおろした。その家が町の城壁の上に建っていて、彼女はその城壁の上に住んでいたからである。


彼女の家はイェリコの城壁の一部だったのです。その後崩れて来るあの城壁です。


いつも神様がどのように彼女と彼女の家族を救ったかと考えさせられます。私の頭の中では、城壁は全部崩れてくる中で、彼女の家の部分だけが残されるというイメージを持っています。


正解はわかりませんが、人はどんな場所にいても神様が救うことができること、これについては迷いないのです。


しかも、もっと素晴らしいことに、神様の救いはそこで留まらなかったことです。彼女の報いは自身が助かったことだけではなかったのです。他の信仰の英雄でも見られるように、自身の想像よりもはるかに超えるところまで神の購いを見られたのです。


自身と家族が救われた後、モースについて記載されている通り聖書は彼女についても、その地の人間としてではなく、神の民と生活する方を選んだのです。彼女も旅人のような人生を選びました。サーモンというイスラエル人の男と結婚することになりました。


そして、彼女は「ボアズ」という信心深い男の母になりました。神様はボアズを通してルツというもう一人の異邦人の女性を救いました。ボアズとルッツに、オベデが生まれ、オベデにはエッサイの父となり、エッサイはダビデの父となりました。そしてダビデの家系から血縁的にマリア、そして養子縁としてヨセフからイエス様が誕生されます。


神様はラハブを通して世の救い主が誕生して来る家系を造ったのです。アブラハムから始まった家系です。彼女は完璧な人だったからなのではなく、神様がご自身を求める人に報いを与えるからです。彼女に値する領域、自身の想像をはるかに大きく超えて神様は名誉を授けたのです。神様は恵み深く哀れみ深い神様でご自身を求め望むものに寛大に報われるのです。


あなたが完璧でないとかは関係ありません。あなたが主語ではありません。ご自身を求め望むどなたもを通して働かれる偉大な神様が主語なのです。



そして、それを信じられないと言うならその例示がまだ出てきます。


士師について


32節に数名の人の名前が挙げられています。

[ヘブライ人 11:32] このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。


その中から私たちも想定するような名前が挙げられています。ダビデ、神様の心を求めた男として知られているので当然です。サムエルとリバイバルをリードして民を神様へ返す様に誘導した予言者たちも想像できます。ギデオンは神様に信じて300人の男で勝利をおさめたので、彼も想定できます。しかし、想定もしなかった、殆ど知られていない という人の名前も挙げられています。


バラク

誰でしたか?彼はイスラエルの歴史の中でも暗い時代の一人の 士師でした。イスラエルに王様が与えられる前に民は繰り返して神様に反抗していました。イスラエルの民は他の神々を拝んだので神様は手放しして敵から奴隷に持って行かれることになってしまいました。そして民は神様に叫んで救いを求めました。そのような時に神様は士師を送って救ったのですが、バラクはその士師の一人でした。しかし彼も恥ずかしいところのないような人生を送っていた訳ではありません。デボラと一緒にいた男ですが、彼女はバラクに、神様は共におられるので戦いに行くよう励ましました。彼はデボラに、「あなたが行かないと私も行けません」と言い、デボラがいなければ神様が働くことを信じていなかったのです。力強い信仰ではありません。信じているが、完全に信じていない。しかし、完全でない信仰でも、デボラと一緒に戦いに行きました。彼は神様に勝利を願っていたのです。


ダイモンで脅かされる息子をイエス様のところに持ってきて、イエス様に癒せるなら癒せて下さいと求めた男のことを思い出します。イエス様はこう言いました


[マルコ 9:23-24] 23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。

24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。


神様はそのような信仰にも報いることができるのでしょうか?その少年を癒しました。バラクに勝利を与えました。ダビデとすぐ隣にバラクの名前が挙げられています。私たちの神様は、ご自身を求めるものに報いる神で、マスタードの種の信仰、時にはそれよりも小さい信仰を用いて働いています。



エフタ

エフタはもう一人の士師でした。彼の人生にはもっと恥ずかしいバックグラウンドがありました。売春婦の息子で家から追い出されていました。襲撃者で、道で人を殺して財産を盗っていたのです。しかし、呼びかけがあった時彼は立上がって神の民のために戦いに行き、神様に求めて勝利と救いを願いました。神様について沢山知っていた訳でもなかったのです。感謝のために自身の息子を捧げることを神様に喜ばれると信じたほど、神様のことを良くわかっていなかったのです。しかしそんなエフタの名前はここに挙げられています。ダビデの隣に記載されています。詩編の多くを書いて、神様のご性質について美しく描いあのダビデです。主は我が飼主、我が岩と歌ったダビデの隣に、神様を求めることさえ知らなかったこの男の名前が記載されています。


なぜなら、あなたが主語ではないのです。神様が主人です。神様はご自身を求めるものに報いる神で、無知で求めて来る人にも報いるのです。子どもと立派な聖書学者は同じく神様にアップローチできます。


サムソン

そしてサムソン。彼のバックグラウンドが最も恥ずかしいと言えます。彼は一生神様を求めず、自身の要求のために生きていました。彼のやったことはすべて自身のためにやっていました。ペリシテ人に戦った時は、神様の民に勝利をとりたかったからでもなく、個人的な復讐を抱いていたからでした。彼の死でも、宮の柱を押して倒す時も、神様のために戦うのではなく、自身が彼らから受けた悪さの復讐でした。とても自分勝手でした。

しかしサムソンの特色は、彼が望むことのすべてについて神様に求めました。自分の必要をすべて神様に求めることを理解していたのです。彼の世代の人は神様に自分の必要を求めることを知っていませんでした。彼らは奴隷生活で良いと諦めていました。その過去にしたように神様の救いを求めませんでした。サムソンがトラブルを起こしてペリシテ人に戦い始めたとき、彼らはサムソンを止めようとしました。彼を捕まえて、縛ってペリシテ人の前へ持ってきました。そうすればペリシテ人の主人の怒りが収まると期待していました。しかしサムソンは自身の必要について神様に打ち明けました。その時に必要な力を、神様が与えられると信じたのです。戦うことを恐れるどころか、けんかをふることを良くしました。これは私たち全員もそうすべきという意味で言っていません。しかし、神様に与えられた力はペリシテ人に打ち勝つことを完全に信じていたところを認めなければいけません。


戦の後彼がくたびれて喉が乾いていた時、彼はどんな行動をとったのでしょうか?その時代にして異例でも神様に叫んで助けを求めたのです。そして水は与えられました。宮を倒す最後の力が必要な時も神様に叫んで助けを求めました。

彼は自分勝手な最低な男でした。しかし彼は時代の異例でも自身の必要について神様に信じていました。そして、神様は図りきれない恵みによって彼の求めに答えました。




終わりに


神様は偉大な神です、私たちはどんな人かに関係ありません。

神様は恵み深い神です、私たちの居場所に限りません。

神様は愛の神です、私たちの過去に関係ありません。

神様は力強い神です、私たちの弱さに限りません。

神様はすべてをご存知の神です、私たちの無知に限りません。


それは神様のご性質で、私たちに必要不可欠なのは神様に求め望むことです。信仰で神を求めるものは恵みによって報われるのです。


アーメン








0 views0 comments