Japanese Translation: Hebrews 11:32-40 (Message: Pastor Robinson / Translator: Aki Amemiya)

克服するための信仰

ヘブル人への手紙11章32-40節

アレックス・ロビンソン牧師

今日は11章の「信仰を巡るツアー」最終日となります。先週は、信仰の勇士たちのリストの中に、とても意外な名前が登場しました。ダビデやサムエル、預言者たちの隣に、かなり恥ずかしい人たちの名前が並んでいました。イスラエルの斥候を助けるために嘘をついた遊女ラハブ。デボラが一緒でなければ神は働いてくれないと思っていた、信仰の弱い男バラク。家を追い出され盗賊だったエフタは、神のことをほとんど知らず、人間の生け贄を捧げると神が喜ぶと思っていた男。そして、サムソンは自分の欲のためだけに生きた男で、神の民のためではなく自分の復讐のためだけに戦いました。

しかし、私たちが見たのは、これらが不完全な人たちの恥ずかしい話ではあっても、神に信頼を置いた人々の話だったということでした。ラハブは、神がご自身の民に勝利を与えることを予見し、それを信じて、斥候を救うために行動しました。欠点があっても、神を求めていたので報われたのです。彼女の命と家族は救われました。そして彼女は、神が約束された救いの家系の一部として加えられたのです。

神について何も知らなかったけれど、神に勝利を求めたエフタには、無知でもそれが与えられました。バラクの信仰は弱くても受け入れられ、勝利をもって報われました。サムソンは利己的でしたが、必要なものはすべて神に求め続け、他の誰も与えてくれない時でも、神なら与えてくださると確信していました。そして彼は報われました。それは、彼ら自身ではなく、彼らが求めていたお方のご性質ゆえでした。恵み深く、憐れみ深く、求める者に報いてくださるお方ゆえに、彼らの人生のうちに働かれたのです。彼らが良い人だったからではなく、神が神であられるからなのです。

さて、この11章の最後の部分では、信仰が、試練を乗り越える勝利を与えるだけでなく、試練に負けないための勝利も与えてくれることを見ていきます。

 

二種類の信仰

ここでは、人々の信仰がそれぞれの人生にどのように働いたかが、並べて書かれています。そして、そのあり方は実際にはさまざまであることがわかります。

さて、前にもお話ししたように、信仰とは、自分の意志を実現することでも、神が自分の言うとおりにしてくれると信じることでもありません。そうではなく、信仰とは、あなたとあなたの人生に対する、神のみこころを信頼することです。あなたに報いてくださり、あなたに備えておられる良い目的のためにあなたの人生に働いてくださる、そのような神のみこころです。

ですから、私へとあなたへのみこころが異なるように、みこころへの信仰が私たちの人生に働く方法も一つではないということになります。私たちへの影響のしかたは一つではないのです。

しかし、そのような形で信仰を提示する人も少なくありません。信仰があるなら、その人生への表れかたは一つだと。私たちも、聖書の中の人々の信仰の働きかたを見て、それが自分の人生にも起きないと、自分に何か問題があるのではないかと考えてしまうことがあります。私たちの信仰に問題があるのではないかと。

しかし、この箇所を見ると、そうではないことが分かります。同じ信仰が働いているにもかかわらず、起こることは様々に異なっています。神の目的に応じて、色々な人の人生に色々なことが成し遂げられるのです。

その目的を達成するための一つの方法として、神は彼らに試練を乗り越えさせてくださいました。

試練の克服

これは、信仰によって人が試練を乗り越えることができる場合です。戦いに勝つことができる、あるいは、直面している試練から何らかの形で解放されることです。

このことは33~35節に書かれています。少なくとも35節の最初までは。

信仰を持った人々が、直面している問題を克服することができた時代です。それらは私たちが最もよく知っている物語です。しかし、皆さんに理解して欲しいのは、これらの素晴らしい物語や奇跡の背後で、神がご自身の目的を彼らを通して達成されたということなのです。

  1. 信仰によって、国々を征服し、戦いの勇士となり、他国の陣営を敗走させた人々

私たちはこれらの物語をよく知っています。ヨシュアは神の約束を信じ、民のために戦い、彼らと共に行くことを信じました。彼は約束の地に入り、最強の敵が彼の手に渡されました。それは、神が彼に与えた目的に沿って実現しました。彼がイスラエルの民に自分たちの土地を手にするための道を開く指導者になるという目的です。それで、彼は信仰によってこの地を征服したのです。またダビデは、自分は神のために戦っていると信じ、ゴリアテをはじめとする他のすべての軍隊や敵を倒しました。この小さな羊飼いの少年が、勝利によって人々の信頼と心を得て、彼らの王として人々に受け入れられることが、神が望んでおられた目的だったからです。

  1. 信仰によって、正しいことを行った人々

もう一つの解釈は、正義を貫いた人々です。サムエルのことをこのように考えることができます。国全体が霊的に貧しく、神から遠ざかっていました。しかし、指導者がおらず、皆が自分の好き勝手に行動していたイスラエルの暗く荒れた時代を経て、良い祭司であるサムエルが現れて彼らを神のもとに連れ戻し、勝利を与える神を信頼し、神の律法を再び信じることができました。エズラも同様に、神の民が長年にわたって律法から離れていたにもかかわらず、再び彼らを神の律法の下に戻したのです。神が意図されたとおりに、彼らは信仰によってリバイバルをもたらし、国家規模で人々の心を変えることができました。神はサムエルを子どもの頃からご自身の目的のために定めておられたのです。

  1. 約束のものを手に入れた

カレブのことを思い起こします。彼は相続を約束され、信仰によって40年間待ち続け、信仰によって80歳になっても戦いに参加し、約束されたものを受け取りました。特別な地域が彼のものとされ、神は彼を用いてその世代の人々に戦いを続けるよう励ましました。そして、その町を攻め取った者に、自分の娘を妻として与えると約束しました。

  1. 獅子の口をふさいだ

ここで思い出すのは、もちろんダニエルです。彼は国中から神への祈りをやめるように迫られていましたが、獅子の穴に投げ込まれる罰を受けても、信仰によっていつものように祈り続けることにし、それを隠しもしませんでした。彼は穴に投げ落とされましたが、ライオンの口はふさがれたのです。これによって、神は王の心を変え、他の国民が同じ運命をたどることのないようにしてくださいました。

  1. 火の勢いを消した

シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのことが思い起こされます。彼らは、バビロン捕囚下のイスラエル人を含むすべての人々が王を礼拝するように強制されていたとき、信仰によって、神が彼らを火から救うか救わないかに関わらず、自分たちは従わないと言いました。これは私たちが覚えておかなければならないことだと思います。神が奇跡的に働いて自分たちを救ってくれてもくれなくても、彼らは王にはひれ伏さないのです。それが彼らの信仰でした。神が自分たちのために特別に働いて救ってくれたらというのではなく、どちらにしても、なのです。このことは、人生への信仰のもう一つの働きかたを垣間見せてくれますが、それについては後ほど触れます。この時は、神様がこの試練に対して勝利を与えてくださいました。彼らを投げ込んだ兵士たちは死んだにも関わらず、彼ら自身は火に投げ込まれても煙の匂いすら移らなかったのです。そして、これによってまた、王の心が変えられ、捕囚の民が攻撃されることなく神を礼拝し続けることができるようになったのです。

このように、神に信頼した信仰の人たちは、試練を乗り越えることができました。敵に勝利し、敵を退散させました。火や獅子からも救われました。霊的なリバイバルをもたらしました。これらはすべて、神が彼らに与えた目的と一致していました。

そして、同じように、私たちの信仰は私たちの人生に反映されると信じています。神を信頼していれば神が窮地から救ってくれる時があるのを信じています。神は決定的な勝利を与えてくれます。信仰が私たちの人生において不可能を可能にする時があるのです。

例)日本に来るための準備や、ビザを取得する準備をした時のことを思い出します。そして、それは不可能なことのように思えたことを覚えています。私は牧師でもなく、聖書学校を卒業したわけでもなく、ミニストリーの経験もほとんどありませんでしたので、良い履歴書を提出できる材料がありませんでした。過去に何度もこの手続きを経験している渡部牧師は、私の経歴を見て3年間のビザを取得するのは無理だと言いました。それどころか、1年のビザすら取れない可能性が高く、却下されてまた別の手続きをしなければならないかもしれませんでした。「奇跡が起きないと無理だから、祈るしかない」と言われたので、神ならできると信じてビザが通るように祈りました。再び連絡をもらったときは、みんながビックリしました。3年のビザが下りたのです。このようなことは今まで見たことがなかったそうです。誰もそれを説明できませんでしたが、私にはできました。それは奇跡だったのです。神がビザを与えてくれたのです。それ以外に捉え方はありません。

ですから、私たちの信仰は試練を乗り越えるために働きます。すべてが不利な状況にある時でも、私たちに勝利をもたらします。私は奇跡や癒しを見てきました。私の妻に、3年間病気で1年間寝たきりだった彼女を、神が癒してくださった時のことを、ぜひ聞いてみてください。

そうです、信仰はこのようにして働くのです。

しかし、このように信仰がうまくいかない場合はどうでしょうか。

国に霊的な改革をもたらしたサムエルのような話がある一方で、エレミヤのような話もあります。エレミヤは、自分の話に耳を傾けず、悔い改めることのない国に説教をしました。エレミヤは、神の裁きが迫っているときに説教し、民が捕囚されているときに説教しました。このようなことが起こったのは、彼の信仰が弱かったからでしょうか。その状況には、信仰は働かなかったのでしょうか。神は働かれなかったのでしょうか。

獅子の口をふさいだダニエルの話がある一方で、ローマの闘技場で獅子の口によって死んだ初代教会の迫害されたクリスチャンたちの話もあります。獅子の口をふさげなかった彼らの信仰は、ダニエルよりも劣っていたのでしょうか。不信仰のせいで死んだのでしょうか?

カレブのように約束のものを得た人もいますが、私たちは先月から、与えられた約束を受け取らずに死んでしまった人々の話をしています。カレブはアブラハムよりも優れた人物だったのでしょうか?だから彼は生きている間に約束のものを受け、アブラハムは違ったというのでしょうか?

死者を生き返らせてもらった女性もいましたが、それは少数派でしょう。それが叶わなかった女性たちはどうでしょうか?彼女たちは皆、信仰がなかったのでしょうか?

私はそうは思いません。エレミヤの信仰も、サムエルの信仰のようであったと思います。闘技場で死んだ人たちも、ダニエルと同じように神を信じていたと思います。新約聖書で信仰の父と呼ばれているアブラハムは、約束のものをカレブのように受け取ることができなかったからといって、カレブより劣っていたわけではないと信じます。

それよりも、私が信じているのは、信仰は一つだけでなく色々な方法で働くということです。そして、聖書は「克服」という言葉について複数の意味を提示していると信じています。

試練に負けない

ヨハネの黙示録は、いかにして克服するかについて書かれた書です。しかし、その中で提示されている克服のイメージは、これまでこの箇所で見てきたものとは少し違っています。

ヨハネの黙示録には、サタンと思われる竜の様子が描かれています。竜は獣に力を与えると歴史を通じて言われてきました。ダニエル書の記述から、これらの獣は地上の王国の象徴であることがわかります。黙示録では、これらの王国=獣たちが、竜から力を受けて、神の民を自分たちの似姿に近づけようとしていることがわかります。彼らは暴力を使い、経済を使い、社会的圧力を使い、神の民が神に従うのをやめて自分たちのやり方に合わせるように仕向けるのです。そして、黙示録では何度も繰り返し「克服」した人々の姿が描かれています。奇跡的に救い出されて克服した人たちがいる一方、他の克服した人たちは...殉教者です。信仰によって死んでいった人々です。そして、彼らは「克服」したことにおいて賞賛され報われています。

つまり、克服とは、患難から救われるかどうかということではありませんでした。むしろ、どんな困難に直面しても...これらの国々や竜に力を与えられた凶暴な獣たちから圧力をかけられても...克服とは、これらの国々の型、この世の型に調子を合わせるのではなく、神の民の型に沿って生き続けることだったのです。

信仰は試練を乗り越えるために働きます。信仰は敵を打ち負かし、獅子の口をふさぎ、私たちを火から守ります。

しかし、それだけではありません。

なぜなら、克服するとは、克服されないことでもあるからです。克服とは、試練の中にあっても、それによって自分自身や自分の信じるものを変えてしまわないということなのです。

信仰は、私たちの人生においても、この目的を達成してくれます。

時には試練から全く救い出されないこともあります。私たちは試練の真っ只中にいるのです。獅子の歯の鋭さを感じ、火の熱さも感じます。私たちは噛まれ、引き裂かれ、燃やされます。私たちは勝てません...事実、ひどく負けています。リバイバルを見ることなく、人々に無視され、追放されるのです。

例)それが日本の姿です。日本は暴力的な国ではないので、暴力が私たちを世に調子を合わせるように仕向けるわけではありません。自分の信念のために殺されることはありません。江戸時代にはそうだったかもしれませんが、今は違います。現代の獣のやり方はもっと巧妙です。暴力の代わりに経済を使います。仕事が欲しければ、その仕事にすべてを捧げなければなりません。すべてのエネルギー、すべての力、すべての時間。教会に行く時間はありません。たとえ時間があっても、疲れていて行きたくないでしょう。日曜日には休養して、週の残りは会社のために一生懸命働かないと、自ら進んでそれができる人達に仕事を奪われてしまいます。聖書の中で与えられた、互いを建て上げるために集まるという模範ではなく、この世の模範に合わせなさい…と。獣は暴力の代わりに社会的圧力を使うのです。人々はあなたを無視します。みんなと同じように行動しなければ、あなたなど存在しないように振る舞うのです。あなたがすべき行動をしない限り、あなたは私たちにとって何の意味もない…と。

それは、私たちに信仰がないからではなく、信仰があるからこそ、このような試練が訪れるのです。

しかし、このような圧力の中でも、神が私の信仰を通して成し遂げてくださるのは、私がそれらの圧力に打ち負かされなくても済むという奇跡です。

[2コリント4:8~9]

8私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。9迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

これらの圧力は、私が世の模範に調子を合わせるように仕向けるはずでしたが、それは実現しません。だからこそ、国々を攻め取ったのと同じ信仰によって、この人たちは...

[へブル11:35b~38]

35b...また、ほかの人たちは、もっとすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを拒んで拷問を受けました。36また、ほかの人たちは嘲られ、むちで打たれ、さらに鎖でつながれて牢に入れられる経験をし、37また、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。38この世は彼らにふさわしくありませんでした。彼らは荒野、山、洞穴、地の穴をさまよいました。

そして、このようなことができた人たちは、国々を攻め取った人たちやリバイバルをもたらした人たちと同じように、

「その信仰によって称賛されました」

彼らも同じように勝利したのです。土台にしっかりと立ってこの世の獣の圧力に負けなかったことによって、他国の陣営を敗走させた人々と同じように勝利を収めたのです。同じ信仰と、目的が成されるための同じ神への信頼によって、それを成し遂げたのです。

そして実際に、神は試練の中にある人々のためにも目的をお持ちです。罰や非難ではなく、むしろ私たちを作り変えるためにそれらを用いるのです。

[ローマ12:2]

2この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

神の目的は、これらの試練や圧力を、あなたを強めるものに変えることです。圧力にはそのような面があります。パイプを破壊するような、その同じ圧力で、ダイヤモンドを作ることもできるのです。ダイヤモンドとは、小さな石炭の塊が強い圧力を受けて出来たものなのです。

そして、それは神がなされることです。あなたが試練によって妨げられるのではなく、信仰によって、神は試練の圧力であなたを作り変えるのです。

例)妻と私がまだ友達だった頃、病気が治ったばかりの妻が何ヶ月も就職活動をしていたことを思い出しました。英語力があっても、失敗に失敗を重ねて、彼女にとってはとてもつらい時期でした。しかし、それはすぐに彼女の祈りの時となりました。神に召されたことを忠実に実行しながら、就職活動を続けていました。打ち砕かれてしまうかもしれなかったこの経験が、彼女にとっては変革の時となったのです。最後にみなさんに伝えたいこと、それは、彼女が輝いていたということです。まるで別人かのようでした。

これこそ、神が信仰を通して成し遂げられることなのです。試練から私たちを救い出すのではなく、試練を受け止め、それを用いて私たちを作り変え、さらには私たちの信仰と信頼をそれまで以上に成長させてくださるのです。

結論)信仰は、あなたの人生における神の目的を達成します。その目的が、試練を乗り越えることである場合もあります。戦いに勝つためです。火の熱さや獅子の歯を感じないようにするためです。リバイバルを始めるためです。みこころであれば、神はあなたの人生でそれを成し遂げてくださると信じましょう。

しかし、もしそれが起こらなくても、何か別のことが成し遂げられていると知ってください。それは信仰の欠如の問題ではなく、時には、神があなたの信仰を通して成し遂げようとしている別の目的があるのだと知ってください。その目的とは、あなたが試練の真っ只中で打ち負かされないようにすることです。獣や竜の圧力さえも用いて、あなたの中からさらなる何かを引き出す目的があるのです。

どちらにしても、あなたは克服者です。

そして、私も克服者です。

アーメン


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