Japanese Translation: Luke 15:11-32 (Message: Pastor Robinson / Translation: Yumi Takeuchi)

ホライズンチャペル・世田谷英語礼拝 2021/6/20 Merciful Father Luke 15:11~32 「哀れみ深い父」 ルカ15:11~32 アレックス・ロビンソン

父の日おめでとうございます! 今日は創世記からちょっと離れ、放蕩息子の話をし ようと思います。たいていは息子たちの方に注意が 寄せられますが、今日はこの父の心にフォーカスを あてることを通して、天の父の心を学びたいと思い ます。そして父の心を最もよく表していることは、 彼がこの上もなく哀れみに富んでおられるというこ とです。

<聖書朗読 ルカ15:11~32>


父親は財産を二人に分けてやった。

イエスは放蕩息子のたとえ話を始めます。この たとえ話は、なくしたものを探し出す3つの一 連のたとえ話の中の一つとして語られていま す。すべて「神が失われた者を見つけ出す」と いうことを例えています。迷い出た羊、失われ た硬貨、そして3つ目がこの二人の失われた息 子の話です。


この3つの話は全て同じメッセージを含んでいます が、違うところはそのものがどのように失われるかと いう点です。

羊の話では、その羊は迷子になろうとしたわけではあ りませんが、ただに草を食べていたら、知らないうち に少しづつ群れから離れて行ってしまったのです。同 じように私たちも時々、意図しているわけではないの に、少しづつ何かから離れて行ってしまうことがあり ますね。」


例話:私が小さい時母と買い物に行き、退屈になっ たので洋服のラックの中でかくれんぼをすることに しました。次から次と隠れるのが楽しくて夢中にな りました。遊び終わってそこから出てきた時に、母 はもうそこにいませんでした。 迷子になってしまったのです。迷子になろうとした わけではないのに。知らないうちに迷ってしまいま した。


これが羊のたとえ話で、羊飼いがどのように その羊を探したかが語られます。

次の話は失われた硬貨の話です。これは羊の場合と は違い、自分からどこかに行ってしまうことはあ りません。少なくともそう願います。恐らく始めは テーブルの上にあったのに、誰かが押して落ち、転 がって見えない所へと行ってしまったのでしょう。 それでなくなったのです。それはちょうど、私たち も自分の選択ではないのに、誰かにそう仕向けられ て間違った方向に行ってしまうようなものです。


気が付いたら、はるか遠くまで行ってしまったとい うようなケースです。そしてどうしていいかわから なくなってしまうのです。これが硬貨のたとえ話 で、女の人はあらゆるところを探すということで す。

しかし今日語るたとえ話は、自分で知らないうちに 離れてしまったのでもなく、誰か他の人にそそのか されたわけでもありません。自分で決断し、それに よって迷ってしまったケースです。


まず弟の話から始まります。放蕩息子です。放蕩とい う意味は、「無駄遣い」ということで、彼が父にお願 いするところであきらかになります。

弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』 と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやっ た。(ルカ15:12)

この後の話ではっきりすることは、この弟はとても裕 福な暮らしをしていたということです。後で彼が戻っ てきた時に言う言葉でそれがわかります。


『父のところには、パンのあり余っている雇い人が 大ぜいいるではないか。』(ルカ15:17)

雇い人でさえパンが有り余っているのなら、その息 子はどんなに多く与えられていることか。彼はとて も素晴らしい暮らしをし、多くの物を与えられて過 ごしていたと思われます。

また、明らかにわかることは彼の父は彼を本当に愛 して大事にし、父との関係は素晴らしいものだった と思われます。


しかし、その息子は放蕩息子だったのです。住んで いた豪邸に感謝もしていませんでした。それを捨て て無駄にすることを選び取ったのです。 父との関係にも感謝することはありませんでした。 父がどれほど自分を愛しているかは気にもしません でした。その関係をも捨てようとしたのです。そし て、父から望むものはその財産だけでした。「私の 分の分け前をください、そしたら後は自分で生きて いきます。」ということでした。


この弟の考えが間違っていることは明らかです。 この安全な場所を去ることも、彼を愛してやまない父 の元を去ることも、若い男にそんな大金を与えること も間違いで、その結果どうなってしまうかは明白でし た。 読者にもわかることですが、この父もそんなことは良 くわかっていたはずです。彼は間違いを犯したので す。今日は父の日なので、お父さんたちに聞いてみた いと思います。

「あなたならどうしますか。」

答えはあきらかでしょう。「絶対にダメだ!今持っ ているものを無駄にすることも、財産を無駄にする ことも絶対に許さない。」

父として私はこう言うと思います。自分の子供を守 りたいし、たとえ子ども自身の考えでも間違いを犯 して欲しくありません。今までわかったことは、子 どもの最大の敵は子ども自身だということです。


例話:赤ちゃんの時は、そこらじゅうをはい回り、 いろいろなものを口に入れようとします。それを取 り上げると泣きだします。歩き始めると、通りに出 て歩こうとしますが、危ないからといさめると怒り ます。少し成長して、開いている窓のそばにある椅子 に乗って外の景色を見ようとしますが、それをいさ めると泣き喚きます。 このように、彼らの最大の危険または敵は、彼ら自 身なのです。


父親は彼らを彼ら自身から何度も助け出さなければ ならないのです。それが父親がすべきことです。少 なくともいい父親がすべきことです。

しかし、ここに出てくる父親は息子が人生の最大の 間違いを犯そうとしているのに、それを止めないの です。何も言っていません。財産を分けてあげて行 かせるのです。 何でそんなことをさせるのか!なんてひどい父親 だ!と思うかもしれませんね。

このたとえ話は神がどのように失われた者を探し出 すかというのがポイントです。最高の父親像に関す る話のはずです。天の父がいかにその子供である私 達を愛しておられるかということを教えています。 父親はこのようにしなさいという模範を示しておら れるのです。

このたとえ話が言いたいことは、天の父はその愛と 哀れみによって、私たちが間違いを犯すことさえ許 容しておられるということです。

神は常に私たちの最善をご存知なのですが、間違っ た選択をする余裕や自由をも与えておられるので す。私たちがどうなってもいいということではな く、それどころかこのたとえ話の父親のように本当 に心配しておられるのです。 実は私たちを愛しておられるからこそ、間違いを犯 すことを許容してくださっているのです。

間違いを通して私たちは多くのことを学ぶことがで きます。

何が正しくて何が正しくないかを教えられるよりも はるかに多くを学ぶことが出来るのです。

例話:私はいつも英語の生徒にこう語ります。英語を 話して間違えることによって、一番早く英語を学べる よと。毎週たくさんの役に立つ、興味深い単語や文 法を教え、彼らはうなずきながらメモを取るのです が、次の週はほとんど覚えていません。彼を責めて いるわけではありません。私も同じだったからで す。

テキストを学び、ノートをとっても、読んだ ものすべてを忘れるものです。しかし、日本 語を実際に話してみて間違えた時、初めて学 ぶことが出来るのです。正しく日本語を話し た時のことは一つも覚えていませんが、間違 えた時のことは全て覚えています。その恥ず かしさとともに、頭に残るのです。それで二 度と同じ間違いはしなくなります。


この父親は息子に間違った選択をすることを赦し、 学ばなければならないことを学ばせようとしたので す。それはどういうことでしょう。 まず、彼の息子の心は父の心から離れていることは明 白です。もし父がダメだと言い強制的に家に留まらせ たら、その状況は悪化したことでしょう。彼らの間 の溝は深くなったことでしょう。それで、父は彼を 自由にさせることにしたのです。たとえ間違いだとし ても。

その通りになりました。息子は出ていき間違い を犯し、ついに父の家にいては気付かなかった ことに気付くことが出来たのです。父の愛に気 付き、父の息子であることがどんなに素晴しい ことかがわかったのです。

これは私たちの恵み深く哀れみ深い神に関して も同じことです。神から離れることも許容され ます。間違いを犯すことを黙認されるのです。

神は私たちが強制されても、言うことを聞かないこ とを知っておられるので、強制するようなことはし ないのです。私たちに自由を与えます。神から離れ た人生がどんなことになるかを知り、神の素晴しさ に気付いて、彼の元に戻って来ることを願っておら れるのです。

これは、天の父の心であるのと同時に私たちが見習 うべきことでもあります。私たちは当然、子供をす べてのことから守りたいと願います。

そのことばかりを考えると、時に暴君のよう に何でも押し付けることになりがちです。そ して、その結果、子供の気持ちを無視するこ とになり、関係に溝を作ってしまうことにも なりかねません。間違えることを遠ざけるこ とによって、彼らが学ぶ最高の機会を与えな いことになるのです。そして子供に教える最 高の機会をも失うことになるのです。

天の父の考えはそうではなく、哀れみをもっ て、間違えるチャンスを与えてくれるのです。そ して、気付いて欲しいことは、その間違いを少 しも責めていないと言う点です。 父親は息子を見つけて憐れに思い・・・

それで息子は家を出て間違いを犯し、すべてを 失います。その時に大飢饉が起きるのです。

頼るものは何もなくなりました。食べる物もなくな り、ある農夫の所に身を寄せ、豚の世話をすること になりました。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物で した。ですから毎日豚の世話をするということは、 この息子は常に汚れた者となったということです。 ユダヤ社会から見捨てられた恥かき者となったわけ です。そして、あまりの空腹のため豚のえささえ食べ たいと思いましたが、それさえ禁じられていまし た。


彼の人生は完全に失われ、豚のえささえ食べれない 状況に陥ったのです。この時点で彼はどん底にぶち 当たりました。しかし、この間違いがとてもいい教 訓になったのです。そのどん底で彼は突然、あるこ とを悟ったのです。

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父の ところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜい いるではないか。それなのに、私はここで、飢え死 にしそうだ。(ルカ15:17)


ここで初めて、自分がどんなに良いものを与えられて いたかが分かったのです。昔の状況がどんなにありが たかったかを悟り、ある決断をしました。

立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さ ん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を 犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格は ありません。雇い人のひとりにしてください。」(ルカ15:18~19)


ここで興味深いことは、この放蕩息子は、自分が したことに対して非難されるはずだと思っている ことです。何かしらの罰が与えられなければ、父 の元に帰ることは出来ないと考えています。たと え父の元に帰ったとしても、以前と同じような関 係には戻れないと思っているのです。父との関係 はもう変わってしまい、父は自分のこと等もうど うでもいいと思っていると推測しているのです。


間違いを犯すとその代価は当然あります。それに対す る責めや罰が与えられるものです。 しかし、父としてあなただったらどう対応します か。この息子が思っているような行動をとらないで しょうか。彼が犯した間違いを少しでも思い知らせ ようとしないでしょうか。全財産を失ってきたのだ から、少しくらいは彼を非難しないでしょうか。謝 らせようとは思いませんか。父としていくつかの厳 しい助言をしないでしょうか。

それがまさに常識的なことだと思います。子供 の愚かさに対して、何らかの罰を与えることは 当然でしょう。

子どもにとってもその方が最善なのではないで しょうか。それで彼らは、自分の間違いを認 め、こんなことをしたらダメだと学ぶのではな いでしょうか。そこで罰を与えられなければ、 決して学ばないのではないでしょうか。

親はその機会をとらえて、子どもに自分が悪かっ たのだと教えなければならないと感じるもので す。

聖書にもそのようなことが書かれているのです。

愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめ の杖がこれを断ち切る。(箴言22:15)

そして、神ご自身に関してもこのようにありま す。


主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むち を加えられるからである。」 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っ ておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるで しょうか。 (へブル12:6~7)

完全なる天の父も私たちを懲らしめることは明らかです。彼も むちを加えるのです。神と私たちの関係において、そのような 時もあります。

しかし、見落としてはいけない点は、私た ちの天の父は常に哀れみを持って、その子 供たちを訓練されたということです。神は 私たちの弱さを理解し受け入れているので す。常に子供たちに対して忍耐深いのです。 神の律法を破った時でさえ、神の哀れみは 顕著なものでした。


例話:このことはイエスご自身も話題にして います。弟子たちが安息日に空腹になり、畑 を歩いている時に麦の穂を摘み、手で揉んで 食べた時、パリサイ人達がやってきて、安息 日にしてはならないことをしているとイエス に言ったことを覚えていますか。イエスはそ の時なんと言ったでしょうか。


イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たち が、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読 まなかったのですか。神の家に入って、祭司のほか は自分も共の者たちも食べてはならない供えのパン を食べました。 また、安息日に宮にいる祭司たちは 安息日の神聖を冒しても罪にならないということ を、律法で読んだことはないのですか。あなたがた に言いますが、ここに宮より大きな者がいるので す。

『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まな い』ということがどういう意味かを知っていた ら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めは しなかったでしょう。

(マタイ12:3~7)

ダビデは祭司ではありませんでしたが、空腹だっ たので彼に哀れみをかけ、本来してはならないこ とをお許しになりました。彼の健康の方をより重 視したのです。

彼は律法を守るために子供をいけにえとして捧げる よりも、弱さの中にある子供を憐れむことを願われ たのです。

神に関してこのようなイメージを持つ傾向がありま す。つまり神の律法はイエスにとって最も大事なも のだと。しかしイエスご自身が、「安息日は人のた めに創られたのであって、安息日のために人が創ら れたのではない。」と言いました。


律法の本来の目的は、神の子供たちを祝福するこ となのです。もちろん彼らを訓練しなければなら ない時もありましたが、それもいつも憐れみと愛 を伴ったものでした。 矯正と訓練は大事で記憶に残るものです。それら が必要な時もあります。しかし同時に哀れみが必 要な時もあるのです。正しい時に示す哀れみはど んな懲らしめよりも力があると信じます。


認めにくいことですが、私は時々、正しいか間 違っているかということだけに囚われ、神の願わ れる哀れみを忘れ、まるでパリサイ人のように、 子どもたちを叱ってしまったことがあります。し かし、父の心は息子が戻ってきた時の行動に現れ ました。放蕩息子が犯したすべてのことや、失っ たもの等を考えると、父が怒りと非難の心に満ち ていても少しも不思議ではありません。


彼を拒絶してもおかしくなかったでしょう。彼に教 訓を与えるために厳しい愛を示すこともできたで しょう。

しかし、息子が愚行をして戻ってきた時の彼の反応 はどんなものでしたか。

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行っ た。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は 彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱 き、口づけした。(ルカ15:20)


彼の反応は、共感と愛情に満ちたものでした。 そして息子が責められると予想して準備してき た言葉を語っている時、父は途中で止めるので す。というのは何ひとつ彼を責めていないから です。息子は準備してきた言葉を言う必要はな かったのです。 それどころか戻ってきたことと、彼が学んだこ とを喜んで、お祝いの用意をするのです。


ところが父親は、しもべたちに言った。『急い で一番良い着物を持って来て、この子に着せな さい。それから、手に指輪をはめさせ、足にく つをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』 (ルカ15:22~24)


私たちの父は私たちに間違えを犯す余裕を与 えてくれます。そしてその後に彼の元に戻っ た時、彼は哀れみ深く恵みをもって接してく れるのです。彼は腕組みをして私たちを受け 入れるのではなく、両手を広げて受け入れて くれるのです。私たちが間違いから学び、成 長して彼の元に戻る時、お祝いをして共に喜 んでくれるのです。

私たちも自分の子供に対して同じように接 したいものです。学んだことを喜び両手を 開いて彼らを受け入れたいものです。

共感と哀れみを土台として、子どもたちを しつけていきたいと思います。

父親が出てきた。

さて、お祝いが始まり、肥えた子牛を屠って、 最高の物を出して祝っていました。しかし、こ こで兄が登場します。この時点まで彼のことに ついてはあまり出てきません。 彼が家に戻り、無駄使いの弟のためにパー ティーが開かれていることを知った時、彼は怒 りました。中に入ろうともしませんでした。


弟がそんな待遇を受けていることに腹を立てた のです。そして、なぜそんなに腹を立てたのか が、後で出てきます。

しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長 年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったこ とは一度もありません。その私には、友だちと 楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがあ りません。(ルカ15:29)


とても興味深いことですが、私たちはいつも放蕩息 子が失われた者であり、年上で責任感のある兄はそ うではないというイメージを持っていますが、ここ で分かるのは兄も弟とまるで同じような心を持って いることがわかるのです。彼は自分が置かれた立場 を感謝していませんでした。長年の間受けていた素 晴らしい待遇を感謝してはいませんでした。それに 加えて、彼も父の愛情に感謝していませんでした。


彼は満たされていなかったのです。彼は自分が欲し いものを求めて父の元を離れた弟とは違い、自分が 欲しいものを父からもらうために、一生懸命働いて いたのです。 ですから、放蕩息子が失われていたのと同じよう に、兄も失われていたのです。彼は自分がどこにい るのか、どんな存在なのかわからないでいたので す。それで、子どものように外でふくれっ面をして いたのです。


そこで父はどうしたでしょう。 父親としてあなたならどうしますか。子供が適切 な行動をとらない時、どうしますか。恥ずかしい 行動をとった時、どうしますか。

例話:通りでよく見かけますね。聞き訳のない子 供に対していらだち、お父さんは「もう知らな い。」と言います。あなたのことなんか知らない と、感情的にその子供を突き放そうとします。なぜなら、カッコ悪いからです。世間体が悪いか らです。

しかし、天の父はどうしましたか。息子と距離を 置きましたか。いいえ、そうではなく哀れみを 持って彼の所へ行きました。99匹を置いて迷子 の羊を探しに行く羊飼いと同じ姿です。息子の所 へやってきました。彼を追い、話しかけ、なだめ たのです。彼も父の息子なのだから。 哀れみの故に、私たちの父なる神も同じように してくださり、「もう知らないよ」とは言いま せん。」

本当です。過去にあなたは間違いを犯し神から 離れたことがあると思います。でも、だからと 言って神があなたをあきらめたわけでもない し、あなたを見つけ出すことを決してやめはし ませんでした。


父は放蕩息子がまだ遠くにいる時に見つけました。 なぜでしょうか。父は地平線をいつも見つめていた のです。彼が戻って来るのを、忍耐深く待ち続けて いたのです。神は私たちにも同じことをしてくださ るのです。

私たちは神に背を向け、どんなに遠くへ行ってし まっても、神はそこにおられます。なぜでしょう。 なぜなら神は私たちを探し出し、追い続けられる方 だからです。


父がもう一人の失われた息子である兄がパーティー に入ろうとしなかった時に、彼に近寄り良くわかる ように話しかけたのと同じように、私もそのような 父になりたいと思います。子供が反抗している時、 遠くに立って見ている父ではなく、彼らのそばに 立ってあげる者になりたいと思います。哀れみ深い 父が私を助けてくれたように、彼らが理解するのを 助ける者になりたいと思います。


例話:父というのは大変な立場だと思います。 あらゆる年代の子供にとって何をしてあげるの がいいのかを知ることは難しいことです。

しかし、感謝なことに模範にすべき素晴らしい 方がおられます。でも、それに従うには助けが 必要です。ですから、今日ここにおられるすべ てのお父さん方、どうぞお立ちください!


彼らのために祈りましょう。

聖霊によって、更に天の父のイメージに似 た者として頂き、子どもたちが父親を見た 時に、天の父の愛を見ることが出来ますよ うに。 祈りましょう!!!




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