Japanese Translation- Mark 4:1-34 (Message: Pastor Robinson / Translation: Yumi Takeuchi)

ホライズンチャペル・世田谷英語礼拝 2020/11/15 「成長する種」 マルコ4:1~34 アレックス・ロビンソン

今日は創世記の学びから少し離れて、イエスのた とえ話に焦点を当てたいと思います。今日の個所 でイエスは種に関する3つのたとえ話を語られま す。その中でイエスは、弟子たちと私たちに、神 の国とはどういうものかということを知らせよう としています。神に仕える人生がどういうもの か。それは、すぐに結果が出るというものではな く、小さな、ささいな成長であるということを、 今日学んで行こうと思います。

聖書朗読:マルコ4:1~34 神の国 イエスがたとえ話を始める時、たいてい「神の国 は次のようなものである」と言う言葉で始められ ます。なぜ多くのたとえ話が、このような内容な のでしょうか。イスラエルの人々はイエスがもも たらそうとしている神の国がどんなものである か、彼らなりの考えをすでに持っていました。

それは、救い主が突然現れて、問題をすべて解決 してくれるだろうというものでした。敵を倒し、 彼らの国を解放し、イスラエルの栄光を取り戻 し、それが神の国になるというものでした。 しかし、イエスの考えはそれとはまったく違うも ので、ローマと闘おうというつもりは少しもあり ませんでした。それどころかイエスの運動はずっ と小さく、目立たないものでした。

病気の人々を癒したり、罪びと達と時間を過ごした り、敵に立ち向かうのではなく彼らを愛し彼らのた めに祈ることを教えたりしたのです。それこそが神 の国の始めだと説いていたのです。 そこには大きな違いがあり、彼らはかなり混乱して いました。弟子たちもその当惑をあらわにし、イエ スに「あなたの働きは素晴らしいものですが、神の 国はいつやってくるのですか。」と質問しました。 いつこの地を治めるようになるのかと。

その当惑の表れとして、すべての人がイエスについ ていった訳ではありませんでした。どうなっている のだろうかと彼らは疑問を持ち続けていたのです。 バプテスマのヨハネが、来るべき救い主について語 りました。彼はイエスに会った時、彼こそがその救 い主であることを確信しました。そして自分の弟子 をすべてイエスに与えて、「彼は栄え、私は衰え る」と言いました。

しかし、その後彼は投獄されました。そこで 彼は急に確信を失いかけたのです。もしイエス が救い主なら、なぜ私は投獄などされるのだ ろうかと疑い、イエスの所に使いを送り、彼 が本当に救い主なのかそれとも他に後から現 れるのかとイエスに問い正したほどでした。 というのは、イエスが、彼が思っていた救い 主とは全く違うイメージだったからです。

同じように、私たちも神の国に入ることが、思って いることとあまりにもかけ離れていると思うことが ありませんか。もっと大きく素晴らしいことを想像 していたのに、それとはまったく違ったり。個人的 な神との関係においてももっと大きな成長するので はないかと期待していたのに、本当に小さな進歩し かしないものだとか。また、私たちの周りの人々に 伝道していっても、ほとんど何も変わらなかった り。

確かにどんなに一生懸命に伝えても、何の 変化も見られない時もあります。 そういうわけで、イエスは弟子たちやイス ラエルの人々だけでなく、私たちにも、神 の国が実際どのようなものかを教えるため に、これらのたとえ話を用いて語ってくれ たのです。

彼はたとえで話された ここで起こる疑問は、人々の考えを変えるために 語られるのなら、なぜはっきりと直接的な言い方 をせずに、たとえ話を用いたのかということで す。 これらのことは、真理を求めている人に語られて いるということです。イエスの話を聞いている人 の中にも、本当はその教えを学びたいわけではな いと思っている人もいたはずです。

面白半分で集まっていた人も、ただ奇跡を見たいだ けの人もいたでしょう。自分の考え方は変えたくな いけれど、彼のショーは見てみたいという人たちも いました。イエスが語っていることを理解したいの ではなく、ただでもらえるパンだけはもらっておこ うと思う人たちもいました。またパリサイ人や律法 学者たちは、彼を殺す口実を見つけるためだけに集 まってイエスの話を聞いていたのです。

しかし、中には弟子たちのように本当に真理を求 めてイエスの話に耳を傾けていた人たちもいまし た。 だから彼はたとえ話を用いたのです。本当に神の 国のことを知りたい人は知ることが出来、知りた くない人はわからないようになっていました。 そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよ い」。(マルコ4:9)

聞く耳のある者は聞くがよい」。また彼らに言われ た、「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量 るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上にな お増し加えられるであろう。だれでも、持っている人 は更に与えられ、持っていない人は、持っているもの までも取り上げられるであろう」。(マルコ4:23~ 25) つまり、本当に知りたいと思うなら私のたとえ話を聞 きなさい。

見つけたいと思うなら答えを見つけるでしょ う。ますます多くの真理を知るようになるで しょうと、約束してくださっているのです。 種まく人のたとえ まず種を蒔く人のたとえで始まります。とても 有名なたとえ話で、一人の人がいろいろな種類 の土地に種を蒔きに出ていくという話です。道 端、岩地、イバラの地、そして良い土地です。

道端に落ちた種は取り去られ、岩地に落ちた種は根 が深くなかったので暑さのため死んでしまいまし た。 例話:カリフォルニアに住めば、このことは良くわ かると思いますが、夏になると州全体が茶色に変わ るのです。根が浅い植物は全て枯れてしまいます。 夏の間緑の葉をつけているのは木だけです。という のは、その根が深いため、暑さに影響されないから です。

イバラの地に落ちた種は、他の植物に邪魔されて 死んでしまいます。しかし、良い地に落ちた種 は、多くの収穫をもたらすものです。 弟子たちがそのたとえ話の意味を尋ねた時に、そ の解説をしてくれました。 種とはみ言葉のことで、土地は人の心のことで す。道端と言うのは、聴くには聴くのですが、種 が根を張る前にサタンが来てみ言葉を持って行か れてしまう人のことです。

岩地というのは、最初はみ言葉を受け入れま すが、それが深いところまで届かないので、 困難がやってくると諦めてしまう人のことで す。イバラの地というのは、み言葉を受け入れ ますが、世の中の思い煩いが多すぎて、その ことに押しつぶされてしまう人のことです。し かし、良い地というのは、もちろんみ言葉を 聴いて受け入れ、その実が実る人のことです。

ここで一つの疑問点は、なぜこの人はそんなにいろ いろな土地に種を蒔いたのかということです。なぜ 良い地だけに蒔かなかったのでしょう。 土地と言うのは人の心を指していて、人の心はどう なっているか誰にもわかりません。自分の心がどう いう状態なのか誰もわからないのです。神だけがご 存知です。良い地がどこなのか、自分が話している 相手が良い地かどうか、私たちにはわかりません。

ですから、出来ることはただあらゆるところにそ の種を蒔くことだけなのです。 しかし、私たちは時々落胆してしまうことがあり ます。ある人にみ言葉を伝えようとして、長い時間 をかけても、何も変わらないことがあります。そ して、どうなっているのだろうか。み言葉に力が あるはずではないのだろうかと思い、少しづつ語 ることが消極的になってしまうことがあります。

しかし、このたとえ話では、み言葉そのものには何 の問題もないと言っています。その種が良い地に落 ちれば実を結ぶのです。もしかしたら、私たちが相 手にしている土地は良い地ではないのかもしれない のです。それで、何の実も見ることが出来ないのか もしれません。そういう場合は、他の人(土地)に 目を向けることも大事なのです。そして、いつかそ の変わらない人の心を神が変えてくれるかもしれま せん。

神は人の心を変えることがお出来になります。神 は私たちにはできない方法で、人の心を変えるこ とができるのです。人の心からイバラを抜き取る ことが出来ると思いますか。はい。なぜなら、私 の心からも主は、イバラを抜いてくれたからで す。 例話:以前にも話したと思いますが、人を恐れる ことがいつも私の躓きの石となっていました。

人を喜ばせることが、私のイバラとなり、そのこと で心がふさがってしまうのです。神が私の心に何か を語っていても、私はいつも周りの人がどう思うか ということばかり考え、神の声が聞こえなくなるの です。このメッセージを用意している時にも同じこ とを経験しました。 私はいつも全体的な聖書研究をし、一週間の中で準 備をしていき、金曜日にはそれを書き上げることに しています。

午後2時くらいには書き始めるといい感じで終わり、 翻訳者たちに送ることが出来るのです。最近はそんな 感じでうまくいっていました。時計のようにきっかり と金曜日にはメッセージができあがるのです。しか し、先週は何も書けずにいました。午前中ずっと座っ ていても1ページしか書けずそれもあまりよくないも のでした。金曜日の夜にもう一度同じページを何度も 書き直しました。午後の英語クラスの前にもまだ1 ページだけしか書けていませんでした。

私はあせってきました。今週はなぜメッセージがま とまらないのでしょう。今週の日曜日は世田谷と町 田でメッセージをすることになっています。本当に 良いメッセージを語りたいと思っていました。特別 なものにしたい。みんなにいいメッセージだと思わ れたいとずっと思っていました。しかし突然、人の 評価を気にしすぎていたことに気が付きました。そ のことによって、書く言葉がでてこなかったので す。

それで、夜遅く子供たちが寝た後、祈りの中で神様 に謝りました。人の賞賛を得ることから私を解放し てくださいと祈りました。あなたの言葉を私に語っ てくださいと。その祈りの後、神は私に語ってくだ さいました。 神は人の心を変え、イバラを抜き取ってくださいま す。人々の心に蒔いた種をいつの日か神は育てるこ とがお出来になるのです。ずっと後になってからか もしれませんが。

いつになるかはわからなくても、それを待ちつつ、 他の土地に種を蒔くことができるのです。 あらゆるところで種を蒔いている間に、良い地に蒔 くことにもなるかもしれません。そして実を見るこ とができるのです。なぜなら、種には何の問題もな いのですから。とにかくあらゆる土地で種を蒔く必 要があるのです。どこが良い地なのか私たちにはわ からないからです。神の国とはこういうものなので す。

弟子たちにとって、このたとえは本当にわかりやす いものだったと思われます。彼らはあらゆるところ で福音を語っていましたが、良い時も悪い時もあ り、ある人は無関心、またある人は彼らを殺そうと さえしたのです。それでも彼らは蒔き続けました。 そして、良い地にその種が落ちた時には、驚くべき 収穫を得ることになったのです! 私たちも、福音を 蒔くときに同じ経験をすることができるでしょう。

種のたとえ話 次にイエスは、もう一つのたとえを語られま す。それも種に関するものでした。今度は蒔く ことではなく、育つことに関するものです。 また言われた、「神の国は、ある人が地に種を まくようなものである。夜昼、寝起きしている 間に、種は芽を出して育って行くが、どうして そうなるのか、その人は知らない。

地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つ ぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がは いると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたから である」。(マルコ4:26~29) ここでは、成長している種のことが語られていま す。しかしその成長は遅いと言っています。すぐに 起きるようなものではないのです。段階があり、少 しづつ成長するのです。まず茎、そして穂、それか らその中に実ができるのです。

時間が必要です。 また大事な点は、種を蒔いた人は、その種が どのように成長するかということに何の力も 及ぼすことが出来ないということです。はっ きりと「夜昼寝起きしているうちに、種は芽 を出して成長するが、どうしてそうなるのかそ の人は知らない。」とあります。成長の速さ に関しても何のコントロールも出来ません。

これは、私たちや周りの人々の中で、み言葉がどの よう働くかを示しています。突然大きな働きをする ものではありません。植物が育つのに時間がかかる のと同じように、時間がかかるものなのです。少し ずつ少しずづ変わっていくのです。あまりに小さな 変化なので、時に何も変わっていないかのようにも 感じます。み言葉が私達の心の中で働くときも、本 当に小さな変化なので、何年もたった時に気付いた りします。

例話:先日、数年前だったら私がパニックになって いたかもしれないことが起こりました。もし、去年 起きていたら、神経がやられていたかもしれません が、今回は全然気にならなかったのです。不思議で した。うろたえもしませんでした。その日の夜に気 がつき、そういえばパニックにならなかったと、驚 いたのです。以前のような反応をしなくてよかった のです。神が私を変えてくださったのだと思いま す。

神様の働きは、まるで種のようにとても微妙で少し づつ変わっていくものなのです。あまりに小さいの で気付かず、時々イライラするかもしれません。何 度も同じ間違いを犯す自分に絶望することもあるで しょう。また他人の成長に関してもイライラするこ とがあります。 私はある人に神さまのことを伝え続けているのです が、本当に時間がかかっています。受け入れている ようですが、ほとんど変わりません。

もしかしたら、彼には希望がないのかも。 でも、どんなに小さくてもそこに成長があるのな ら、種は芽を出すことをあきらめてはならないと思 います。ただ時間がかかるのです。 種を蒔く人のように、私たちにはどうすることもで きないのです。成長を速めることは出来ません。種を 植えて、水をやり、成長を促すことは出来ますが、成 長そのものを速めることは不可能です。後は神の仕事 であり、私たちがやることではないのです。

たとえ話には、大きな励ましもあります。成長と は、いったん始まるといずれ完成するということ です。種が割れて芽が出ると、穂が出来、そして 実ができるのです。種は収穫をもたらします。 神はこのように語っています。 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわ たしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命 を必ず果たす。(イザヤ55:11)

パウロはこのように語っています。 あなた方の中で良いわざを始められた方が、キリ スト・イエスの日までに、そのわざを成し遂げて くださると、わたしは確信しています。 (ピりピ1:6) 種は必ず実を実らせ、神の言葉は必ずその使命を 果たすのです。私たちはただ、忍耐をもち、どん な小さな成長でも感謝することが大事です。

からし種のたとえ話 最後にもう一つ種に関するたとえを語られました。か らし種の話です。小さな小さな種です。 また言われた、「神の国を何に比べようか。また、ど んな譬で言いあらわそうか。それは一粒のからし種の ようなものである。地にまかれる時には、地上のどん な種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野 菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の 鳥が宿るほどになる」(マルコ4:30~32)

それは非常に小さく、よく見ると丸い種です。恐 らくゴマよりも少し小さいでしょう。当時、ラビ が最も小さいことを例える時によく使った例でし た。現代だったら、更に小さいものを想像するこ とが出来ます。原子が最も小さいものだといえる でしょう。しかし当時はからし種が最小の物と思 われていました。 イエスも、最小のものを指すためにからし種を用 いました。

ここのポイントは、最も小さいものでも、実に大き なものになるということです。からしの木は実際と ても大きくなります。イスラエルに生息する木は2 メートル以上になります。そして鳥が巣を創るほど になるのです。でも、最初は小さな小さな種から始 まるのです。 神の国も同じようなものだというのです。弟子たち は大きな変革を求めていました。イエスがこの世を 治めると思っていたのです。

イエスと共に彼ら自身もこの世を治めるものと期 待していました。 私たちも神に仕えるということは、とても大きな ことをすることだと思いがちです。もちろん神の ために大きな夢を持つことは間違ってはいませ ん。しかし、大きなことは全て小さなことから始 まることを忘れてはならないと思います。大きな 出来事は少人数の人によって始められます。小さ いからと言って落ち込むことはないのです。

例話:世田谷でシャインキッズを始めた時、町田で はかなり多くの生徒が既に来ていました。40人は いました。これはすごいことだ。世田谷でも始めよ うと思いました。町田と同じことをすれば、世田谷 でも相当多くの生徒が集まると思っていました。た くさんのチラシを配り、ついに最初の日がやってき ました。・・・たった一人しか来ませんでした。1 か月がたち一人も増えず、数か月がたち、二人にな りました。

そのあとずっと長い間二人のままでした。大きなこ とを夢見ていましたが、小さなことしか得られませ んでした。私はとても悲しくなりました。毎週、町 田でシャインキッズをやる時は40人の生徒が教室 になだれ込んでくるのに、木曜日は世田谷で二人し か来ないのです。神に怒りさえ感じていました。な ぜ私の働きを祝福してくれないのですかと。しか し、神は私にその小さな働きが大事なのだと教えて くれました。

毎週来ている二人の小さな女の子が大切だ と教えてくれたのです。その日から私はその 二人のために、心を注いでレッスンの準備 をすることにしました。そして神は徐々に その働きを祝福してくださり、更に生徒を 送ってくださいました。でも、最初は本当 に小さなところから始まったのです。

弟子たちも大きなことを期待していたことで しょう。でも、実際はとても小さなことでし た。イエスが昇天したあと、120人の人がひ そかに集まって祈っていた時に始まりました。 小さな始まりでした。からし種のような。しか しその120人で始まったものが今や全世界に 広がっているのです。今日この日本でも、イエ スのことが語られているのです!!

私たちにとっても、神の働きは小さなものから始ま るのでしょう。期待することよりずっと小さなもの から。トイレ掃除や、椅子拭き、販売するためのパ ンを焼くこと、日曜学校の子供たちに教えること、 小さな聖書研究、もしかしたらたった一人の人と学 びを始めることかもしれません。 あまりに小さなことなので、それを軽視するかもし れません。それに時間を使うのはもったいない。つ まり、からし種のようなものだと。

神はこのことをゼカリヤを通して教えられました。 誰が初めのささやかな日をさげすむのか。主は、働 きが始まるのを喜ばれる。(ゼカリヤ4:10) 小さな始まりをさげすんではいけません。からし種 を嫌ってはいけないのです。なぜなら主は働きを始 めることを喜ばれるのです。なんと麗しい事でしょ う。私たちが小さく始める時に、神はそれを喜んで くださるのです。

なぜなら、それはやがて大きくなるものの始まりに すぎないと知っているからです。 神が喜んでくださるのなら、私たちも同じ思いにな るべきではないでしょうか。み言葉にあるように、 永遠に小さいままでいるわけではないのです。知ら ないうちに、私たち自身より大きく成長するので す。小さく始まることを私たちが受け入れる時、 思った以上に主は大きなものとしてくださいます。

結論:イエスは人々に神の国について語られまし た。それは、人の国とはなんとかけ離れたものだっ たでしょうか。彼は種についてのたとえ話を語られ ました。み言葉の力を信じて、多くの人々にみ言葉 を語り続けることを私たちに教えられました。適切 な地に出会った時、必ず収穫の時が来るということ です。 また、み言葉は私たちや人々の中で、ゆっくりと成 長することを教えられました。

それは時間がかかり、遅々とした歩みでは ありますが、始まりさえすれば、必ずいつ か収穫する日がやってくると信じて、忍耐 することが大事なのです。その時までは、 小さなささいな成長を喜ぶことです。 また、たとえ小さく目立たない始まりで も、大きなものに変えられていくというこ とを教えられました。

ですから、これらのことを心に刻みましょう。 私たちには聴く耳が与えられているのですか ら。 私たちの主、イエス・キリストによって愛を 持って語られたこれらのたとえ話を心に留め て、歩んでいきましょう。 アーメン




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